つっきーとホットミルクの話
 よく、眠れなかった。今日は久々に日向の家に泊まった。ここのところずっと忙しくて、明日からもまた地方へ出張の予定がある。朝早い…というほどでもないが、しかし、出発は朝と表現して差し支えない時間だ。そして向こうに到着すればすぐさま仕事は始まり、担当者との顔合わせなんかもある。移動中に眠れば良いとも思うけれど、今きちんと睡眠が取れるにこしたことはない。しかし、目が覚めてしまったのだ。夜半過ぎ。
「…あれ」
ぼんやりした思考を引きずって、ふと隣の違和に気付く。居ない。一緒にベッドに入らなかったっけ、いや何かの準備をするとか言っていたっけ。霞みがかった記憶は八つ当たりのように、不在に対する不快をいや増しさせる。別に常に居なければならないなんてこと、全くないのだけれど。
 「あれ、ごめん起こした?」
「…起きただけ…」
明かりを辿ってキッチンへ向かうと、日向は何かの作業をしていた。いや、もう片付けだろうか。少しだけ甘い匂いが残っている。姿を見せた僕に腰だけ捻るようにして振り返り、軽い調子で謝罪した。手は止まらないから、やっぱりもうすぐ終わるのかもしれない。なんとなく、僕はそのまま、キッチンの入り口にもたれかかった。
「眠れねぇの?」
「…ん、ううん」
眠れない、というのは語弊があるような気もして、問いに曖昧な返事をした。日向は、ふうん、とだけ言って、また作業に戻る…のかと思いきや、マグカップをひとつ取り出した。僕がこの家に来た時に、いつも使っている白いやつだ。取り出した手をそのまま追ったら、並べられた先には日向のものも同じように置かれていた。
「おすそわけな。あったまるよ」
そう言って、日向は並べたマグカップへ鍋の中身を注いだ。鍋。いつの間に。鍋からは白い液体。とぽとぽ、小さな音を立ててマグカップへ二等分されていく。ああきっと、ホットミルクだ。僕の頭は思っているよりもずっと、眠ったままだったらしい。微かな甘い匂いの正体は、これだ。注ぎ終えて日向が「はい」と差し出すので、拒否の選択肢も無く、僕は無言で受け取った。ひとくち。鼻をくすぐる甘さを含んだミルクの匂い。ぬるま湯のような穏やかな温度は何を急かすでもなく、口の中に広がって喉を通り、身体に染みた。
「ミルクたぁっぷり、お酒を少ぅし、いっぱいいーっぱい、おいしくなぁれ」
楽しげに節をつけて日向が口ずさむ。くる、と緩やかにマグカップをまぜるように回して、少しだけ口をつける。その様子があまりにも楽しそうで、僕は思わず「なに、おまじない?」と尋ねてしまった。我ながらメルヘンなことを言ったな、と照れ臭い気持ちになるけれど、まぁたまには悪くない。入口にもたれたまま、また一口飲んで細く小さく息を吐く。あたたかい。
「ふふ。俺、魔法使いだから」
僕の言葉にいたずらっぽく日向が笑う。おまじない、という単語を受けてだろう。それから楽しそうにまた、ミルクを口に運ぶ。こくりこくりと静かに上下する喉。もともと一人分だったホットミルクは大した量も無い。瞬く間に身体に馴染んでいって、僕は最後の一口を飲み込んだ。
「…君は魔法使いなんかじゃないデショ」
「えー、そんな現実的なこと言っちゃうー?」
キッチンへ一歩進んで、空になったマグカップを流しに置く。取り敢えず水につけておけば良いや。僕の行動で飲み終わったことを察したのだろう日向も、ひどい、と笑いながらぐっとマグカップを傾けて飲み干した。
「強いて言うなら、僕の魔法」
「ん?」
シンクで水を流していた僕の隣に寄ってきて、同じようにマグカップを流れに差し出した日向に、水に紛れるような小声で呟く。置いてしまう気だった僕と反対に、日向は軽く水で洗った後、スポンジを手に取った。手早く洗って、「僕が君を好きだから、一人で飲むよりずっと、美味しいんだよ」、かごの中にふたつ、マグカップが伏せられる。
「…へ?」
水音に紛れきれなかった言葉が、届いてしまった。予想よりも日向が洗い終わる方が早くて、僕の言葉は日向に、それこそ魔法をかける。手元を見ていた日向の動きがぴたりと止まり、やがてじわじわと頬が耳が朱色に染まっていく。それからゆっくり、殊更ゆっくり、確かめるように噛みしめるように、僕を、仰ぎ見る。
「…僕、あした早いから」
駄目だ、こっちを、向かないで。瞬間的に顔を背けて、ついでに日向を遠ざけるように突っぱねた。「ぶぇっ、なに!」と酷い声が上がったけれど、もう気にしていられなかった。即座にその手を放して遠ざけたはずの日向を解放、僕は背を向ける。足早にキッチンを出る。
「ちょ、つ、あっ、歯みがけよ!」
「っ!」
背中に飛んできた声に、もう言葉が出てこない。こんなオチみたいな台詞が、日常過ぎて愛しくなったなんて、なんて馬鹿らしい!

 ――次の日、僕の好きなジャムとスコーンがこっそりとかばんに入っていて、行きの新幹線でもう帰りたくなったことは、日向には絶対に言ってやらない。