月島(とこっそりモブ女子社員)
 突き抜けるような青空を、突き抜けるようにビルが建つ。スタイリッシュな外観と同じく、エントランスを始めとした内装もシンプル且つ機能美を備えた社屋。この辺りも随分と開発されてきた。住宅街から然程遠くないわりに、交通の便の良さからか種々の会社の支社が集まり、すっかりオフィス街の顔も見せる。そこに、月島蛍の職場が在った。
 「月島、こないだ頼んでたアレ、どうなった?」
「アレ。…あぁ、大丈夫ですよ。チームの選定も済んだので始めさせてます」
「おーサンキュ。まとまったら、報告してくれ。来週には上がる?」
「というか、週末には上がりますよ」
上司から掛かった声に、月島は自分のデスクに座ったまま、首だけを向けて簡単に進捗を答える。言葉少ななそれでも上司は納得したのか、それだけ確認すると「宜しく」と言い残し、他の仕事も在るのだろう、来た時と同じくばたばたと部屋を出て行った。それをちらと横目で見ながら、月島は時間を確認する。現在時刻、十六時過ぎ。ぐ、と伸びをしてから、がさごそと足元に在った鞄を探る。取り出したのは、細身で黒いステンレス製のマグボトルと相反するような小振りの可愛らしい包み。その口を留めているワイヤータイをほどくと、ころころとした丸っこいクッキーが現れた。月島の指が、ひとつ摘んで口に運ぶ。ぱくり。ほわり。眼鏡の奥で、ほんの少し、目尻が下がった。
 「ちょ、見た?」
「見た! ヤバイ今日もカワイイ!」
そんな月島の様子を目撃し、パーテーションで仕切られた同じ部屋に在る別の部署――事務の女性二人が、ばしばしと肩を叩き合った。濃い茶色のゆるく巻かれた髪をひとつにまとめている彼女が、「はー…イケメンまじイケメン…」と呟く。ショートカットを涼やかに切りそろえた明るい茶髪が「それな」と相槌を打って、はぁ…と溜息混じり、同様に頭を抱える。月島の席からは恐らく意識されていない二人は、「てかさぁ」と目を凝らして、月島が取り出した包みを見詰める。
「ねーアレ、今日も違うやつじゃない?」
「えーやっぱ彼女かなー?」
ほとんど毎日のように、月島が食べている菓子のパッケージは変わった。二人の位置からでは遠過ぎて内容までは把握できないが、包みの色は毎度変わるものの貼られているラベルはどうやらタイピングされた既製のものなので、手作りなどではないことが判る。自分で購入している可能性も勿論在る、が、高い頻度でパッケージが変わることを考え合わせると相当通わなければならないだろうし、そもそも小さいとは言えそれなりの量が入っている菓子だ。おやつ代わりに会社でひとつふたつ摘んでいるのは見るが、それを一人で毎日食べきっているとは思い難い。
「はー…オウチ帰ればお菓子だいすきなカワイイ彼女ですかー…」
「あー…イケメン、まじイケメン…」
女性二人の突っ伏す先で、涼しい顔の月島がマグボトルと菓子をしまいながら、パソコンのスリープ画面を再起動させていた。
月島と山口
 「なに、また?」
「ほんっとごめん! 10個くらい詰め合わせてくれれば良いから!」
スマートフォンのクリアな音質は、その感情を如実に伝えてくる。数回のコールのあと、表示された名前が名前なので渋々出たら、開口一番「ごめんねツッキー!」だ。溜息交じりに問えば、再度の謝罪のあと、山口は電話越しに泣きそうな声で頼みごとをしてきた。
「どうせそんなの無くたって、あの人は原稿するデショ。限界ぎりぎりまで引っ張るけど、なんだかんだで約束は守るんだから」
月島は呆れたように電話の向こうの山口を諭す。他の客の邪魔にならないよう、眺めていたショーケースから少し離れて店の隅に立つ。月島は現在、よく通っているケーキショップの店内に居た。山口は、それを見越して電話してきたのだ。
「今回は印刷所の事情で、最終締切が二週間早まったんだよ~」
「それでも、こっちが言った『最初の締切』よりは長いんじゃないの?」
幼馴染だとか親友だとかと表現して差し支えない関係たる山口は、月島と同じ会社の違う部署で働いている。企画や営業を行う月島とは違い、いわゆる「担当」と呼ばれる編集者だ。忙しそうに方々の作家を訪ねたり、資料を集めたりなどと飛び回っている。とはいえ、月島にはなんの関係も無い。いくら幼馴染だ親友だと互いに思っていたとしても、なんの関係も無い。無いのに。
「そうだけど! でも、とにかくやってもらわなきゃいけないから! ねっ! どうせいつもの店に居るんでしょ? おねがいします!」
「………ほんと、言うようになったよね」
「ありがとツッキー!」
多少、懐に入れた相手を無下に出来ないところがある、と、認めざるを得ない。了承の代わりに皮肉で返せば、山口には簡単に真意が伝わったらしい。途端に弾んだ声になった。今までも、何度かこういったやりとりをしている。別件で手を離せない山口に代わって彼の担当作家に原稿を貰いに行ったり、差し入れを持って行ったり、だ。マクロの視点から言えば会社の、ひいては自分の利益になるし、山口の頼みだし、難しいことでもないし、基本的には聞いてやる。ああ僕も随分丸くなった、と思いながら、「…で、まさかとは思うけど、直接あの人のトコ行けって言わないよね?」、肝心の差し入れ先を尋ねる。
「…ツッキー、判ってるなら聞かなくても大丈夫じゃん」
「…全然判らない全く理解したくない僕は拒絶する」
「黒尾先生のトコでーす」
「ほんっと、言うようになったよね!」
先程までの涙声はどこへやら、山口はあっけらかんと言い放つ。そもそもこの店にいることを見越して掛けてきた辺りで、うすうす勘付いてはいたのだ。はぁ…と、これ見よがしに深々と溜息を吐くと、山口が再度朗らかに「ありがとツッキー!」と向こう側で言った。
「そういえば、あの人の前でツッキーって呼ぶのやめてくんない? あのひともそう呼んできて鬱陶しいんだけど。ちゃんと月島って呼ばせて。てゆか呼ばせないで」
「ごめんねツッキー!」
判っているのだろうか、本当に。開口一番から重ねられ、だいぶ軽くなってきた山口の謝罪を聞き流し、「貸しだからね。領収書切るし。絶対あの人の為になんて払わない」とせめて眉を寄せて言ってやる。無論、その表情は山口に見えるわけはないのだけれど、電話の向こう側で月島が拗ねたのを感じ取ったのだろう、山口は苦笑するように、「ありがたく借ります。行くのは、今日なら何時でも良いらしいから」と答える。
「何時でも良いとか、絶対あの人、ケーキ食べたいだけでしょ、ソレ…」
「うんうん宜しくね。ありがとツッキー! 俺は、夜なら間に合うから! じゃあ!」
「! ………サイアク」
勢い込んで通話の切られたスマートフォンをたっぷり十秒見詰めて、月島が溜息交じりに呟く。いやしかし、そうだ、他人の金でこのケーキショップに貢献出来ると思えば良いじゃないか。そうだ。いやそんなら借金しても僕が貢献するし。くそ。
「……すいません」
「あっはい! お決まりですか?」
そうして脳内で悪態を吐きながら、形の良い指で月島はショーケースを指差した。
道宮と日向
「道宮さん! 休憩ありがと!」
「あ、日向くん。おかえり」
遅い昼食を取って、日向がカウンターへ戻ってきた。ショーケースの中身や焼き菓子の陳列を検分して、「あれ、結構売れてる」と独り言のように呟いた。
「あぁうん。さっき、常連のお客さんがまとめ買いしてくれたから」
「あ、そうなんスか」
「そう。今日の個数だと、きっと差し入れしに行くんだと思うな。派手に電話で溜息ついてたし」
その様子を思い出してか、道宮がくすくす笑う。釣られて日向も少し顔を崩しながら、「差し入れで電話っていうと、つっきーさんですか?」と道宮に尋ねた。
「つっきーさん、なのかな? 私、名前までは知らないんだけど…。ショートケーキは二種類とも買うお客さんだよ」
この店にはショートケーキが二種類ある。ひとつはパティシエたる菅原が考案した季節によってクリームの味が異なる店の看板商品で、もうひとつは見習いの日向が手掛けているオーソドックスで王道な、苺がふんだんに使われているものだ。どちらも人気の高いものだが、同じ系統のケーキでも在るので、いつも同時に購入するという客は多くない。道宮の挙げた特徴に納得した日向は、「あ、じゃあつっきーさんだ!」と改めて声を上げる。
「俺も名前は知らないんですけど、つっきー、って呼ばれてるの聞いたことあって」
「そうなんだ? あれ、でも、いつも一人で来てるよね?」
「あ、うん。電話で、『あなたにつっきーって呼ばれる筋合いはないんですけど?』って言ってて」
「へぇ。よく覚えてるね。さすが日向くん」
感心したような道宮の声に、日向はそんなことないです、と照れたように笑った。本人の快活な性格や話しやすさも手伝ってか、日向を認識している客も多く、日向も同じかそれ以上に、客を認識していた。いつも帽子を被っている穏やかな老紳士には「ぼうしんし」などあだ名をつけて、よく三人で話したりしている。ちなみに「ぼうしんし」は日向が帽子紳士と言おうとして噛んだのを菅原が気に入ったという経緯がある。厨房に居ることも多い菅原は、そういった話を好んで日向や道宮にさせては、ケーキのリサーチも行っているらしい。
 「あ、そういえばその、つっきーさん? ケーキの予約していったから、予約票、書いてもらったわ」
「予約ですか」
ぽんと手を打つようにして、道宮がレジの置かれている台の引き出しを開ける。ととと、とついて覗き込んだ日向が、予約票を探す手元を見遣った。
「うん、こないだスガ…わらさん、が、発表した新作、発売日が決まったから、それを」
「あぁ。てか道宮さん、どうしてもスガさんって言えないんですね」
「どうも癖で菅原って呼んじゃう。駄目よね、店長に向かって呼び捨てする従業員とか。あ、これこれ」
「癖って抜けないですよね。…おぉ、『月島』さん」
つい先程の予約だ、めくれば直ぐに該当の伝票は見つかったらしい。ところどころ伸びる癖は在るようだが、大人っぽい読みやすい字で、氏名の欄に「月島蛍」と書かれていた。ということは、やはり彼は「つっきーさん」で間違いないのだろう。道宮が確認を促すように手渡してくれた予約票を受け取って見詰める。
「月島さん、かぁ。じゃあやっぱ、つっきーさん、だね」
「あ、はい! そうですね!」
道宮の問いかけに日向がワンテンポ遅れて笑った。他意は無い。予約票の少し斜めに倒された文字を眺め、「…ほたる、かな?」と呟いて、引き出しにしまった。
黒尾と月島
 応接室…というよりも、インテリアに拘ったミーティングルームと表現する方が相応しい場所で、月島は待たされていた。寄せた眉を隠しもしない。ケーキを手渡して用件を伝え、それで帰ろうとしたのだが、「ありがとう。じゃあこっちだよ」という有無を言わさない案内に、月島は不承不承、渋々、嫌々ながら、通されたその場所で待機していたのだ。呼んでくるよ、とケーキを持ったまま、案内役たる赤葦が消えて数分も経たない内に奥の扉が開かれて、図らずも見慣れた黒いとさか頭が顔を出した。
「お、わざわざ悪いな。ありがと、ツッキー」
「悪いと思うなら我儘言わないでください。あとその呼び方も、やめてもらえます?」
ニッと口角を上げた表情に、不機嫌を露わに月島が言う。言うが、まぁ座れよ、と苛立ちをぶつけられた方の男・黒尾はどこ吹く風、月島に着席を勧めた。
「コーヒーで良い? 食ってくだろ」
月島の言葉はスルーして、黒尾はゆったりと月島の向かいの椅子へ。その隣には待機するように赤葦が立った。しかし持て成される空気など微塵も気にしない月島は頑なに、椅子に手を掛けもせず、「紅茶党なので失礼しますね」と、にべも無く告げる。が、黒尾も同じく、意に介さない。
「じゃあ紅茶いれっか。赤葦ー」
「でも抹茶が飲みたい気分なので、やっぱり失礼しますね」
「んーじゃ、やっぱあいだを取ってコーヒーな。ま、最終的には俺のオゴリなんだから食っとけって」
「まだ僕の財布からお金出してるので、微塵も奢られてませんけどね」
月島の鋭い返球を、黒尾がのらりくらりとニヤニヤかわす。その隙間を縫うようにして、短く息を吐いた赤葦が「砂糖、要らなかったよね?」とコーヒーを淹れるていで割り込んだ。
「どうせ原稿はもう粗方できてるだろうし、山口が来るまでの辛抱だよ」
「…マグカップで出すのやめてくださいね」
「あれ、バレた? 山口が来るまで長居するのかと思ったんだけど」
「しません帰ります」
赤葦は赤葦で変化球を投げてくる…いや、搦手から攻めてくる、とでも言うのだろうか。彼は月島の間髪入れない否定に、そう、と小さく笑って、ケーキを片手に部屋を出て行った。恐らく、給湯室へ向かったのだろう。黒尾がその背にヨロシクーと声を掛けて見送って、月島に向き直った。
「ま、つーことで座れよ。ツッキーったらツレないんだから。仕事仲間なのにー」
茶化すように肩を竦めて、再度、着席を促す。じと、と椅子を見つめた月島だったが、小さく溜息を吐いて観念したように手を掛けた。ケーキを食べるから仕方ないケーキの美味しさに罪は無い、と脳内で念じるように呟いて、音も無く引いた椅子に浅く腰掛けた。
「仕事仲間? それはウチの山口とアナタであって、僕は関係ありませんから」
眼鏡をくいと上げ、睨むように視線をやる。隣の椅子の背を肘掛け代わりにだらりと椅子に座っていた黒尾が、証拠でも示すようにぴっと人差し指を立てて、その言葉に応戦する。
「いやいや、こないだのウチのゲームで乗っ取り企画した雑誌、第一弾は成功したって聞いたけど?」
「ええ、そのビジネスは順調ですよ。決してアナタと業務時間外にお茶を飲む理由にはなりませんけど」
「つーれねぇなぁ、ほんともう」
取り付く島もない月島にけらけら笑って黒尾は椅子の背を超えるように天を仰ぐ。比例して月島の眉はますます寄るのだが、黒尾はとんと気にしないらしい。コーヒーを淹れた赤葦が戻ってくるまで、黒尾と月島の舌戦は続くのだった。
月島と日向
 「はい、月島です」
いつも通り、殆ど定時のような時間に月島は上がった。気に入っているケーキショップでおやつを調達して帰ろうと寄ったのだが、店内の焼き菓子を見ていたら、不意にポケットで携帯電話が振動した。名前を確認すれば、上司である澤村だ。退社後に掛けてくることはあまり無い名前に、多少不審に思いながらも出ないわけにもいかず、月島は応答へと指をスライドさせた。
「あぁ月島か? 澤村だ。すまんな、帰ったのに」
「いえ。何かありました?」
「それが、ちょっとトラブルが起こっててな。今日、届くはずのサンプルが、まだ来てないんだ」
「え、あの企画のですか? …いや、昨日着の予定じゃなかったですか?」
トラブル、と表現するわりに澤村の対応は酷く冷静で安心できる。サンプルという言葉に幾つか思い当たった案件の中から、確認するように疑問を重ねるが、いや、と澤村の口からは堅い否定が出てきた。
「昨日着のものに不備が在ったんだ。それで一度戻して、今日また上げてもらう予定だったんだが…聞いてないか?」
「伝達漏れですね、済みません。担当って照島さんでしたっけ。出張行きましたよね…。取り敢えず僕、印刷所の方に直接行ってみるんで、電話お願いしても良いですか」
「ああ、各所への遅延通達と印刷所への催促はやっておく。念のため、運送会社にも掛けてみるか」
月島の返答に、澤村からも的確な対処が提案される。手に持っていた書類を取り敢えず棚に置き、月島は自分の鞄を探って手帳を取り出した。ばらばらと片手で器用にページをめくると、目当てのメモを見つける。
「照島さん、九州でしたっけ。移動中っぽいな…。印刷所は…名前しか判んないな。住所送ってもらって良いです?」
「ああ調べてある。悪いが頼むな」
「大丈夫です。また掛けますね」
そして月島は通話を終了した。幾つか操作をして、本来の担当たる照島へ、現状説明と折り返し希望を盛り込んだ簡単なメッセージを送る。送っている内に澤村からは「住所だ」という簡潔な言葉と共に、くだんの印刷所の住所・電話番号・担当者名などが記載されたものが届いた。遠くは無い。脳内でルートを考えながら、ばたばたと月島は店内を出て行った。
 「大変そう…」
「営業マンって感じですよね。…あ」
「ん?」
月島の背をどうすることも出来ずハラハラと見送り、顔を見合わせた道宮と日向だったが、不意に日向がカウンターを出ていく。先程まで月島が立っていた棚に近寄って「やば!」と声を上げた。
「どうしたの?」
道宮が首を傾げると、ばっと勢いよく振り返った日向が、見つけた封筒…恐らく先ほど手帳を出す前に月島が置いたのであろうものを掲げる。そして、「これ! 俺、ちょっと行ってきます!」。
「えっ?!」
道宮の動揺を置き去りに、日向は店の外へ飛び出した。駐車場の無い店舗だ。車ならば時間貸しの駐車場だし、電車でも、どちらにしろ多少歩かなければならない。あの背中はそう見間違える背中じゃないはずだ。自分の足にも多少の自信は在る。きょろきょろと左右を見回して勘で左に走り出した日向は、程無く質が良さそうなスーツに身を包んだ背の高い後姿を見つけた。
「つっきーさん!!」
「?!」
果たして、月島は振り返った。いつも取り澄ました顔で商品を選んでいる時には見ない、ぎょっと、驚いた顔をして。眼鏡の向こうの目が見開かれている。
「え、…なんで」
絞り出した声がつかえて、心做しか低く詰問するように這った。しかし日向はバタバタと駆け寄ると、間に合った、と息を吐いて「これ!」と封筒を差し出した。見覚えのある茶封筒だ。つい、先程、自分が、
「つっきーさんのですよね?!」
「え、あっ…はい」
自分が、店の棚にひょいと置いてしまったものだ。そのまま忘れてきてしまったのか。失態に一瞬赤くなるも、それより、目の前の彼は何故。羞恥と疑問がないまぜになって眉が寄る。とにかく、そうだ、あと、お礼を。じっと封筒を、ひいては彼の手元を見つめてしまっている自分に気付いて顔を上げようとした瞬間。
「忙しそうな方だし、大事なものかと思って。追いついて良かったです」
「えっ、あ、はい」
「それじゃ!」
にこ! そんな文字が彼の背後に浮かびそうなくらい、爽やかな笑顔だった。追いかけて走ってきたのに、息ひとつ乱していない。自分より頭ひとつ分くらい小さいのだと、並んで実感した。いやそんなことより、なんて気の利かない返答を、じゃなくて、そう、御礼すら――「あ、の!」。
「?」
自分から飛び出た声に自分でも驚く。こんなに大きな声を出したのなんて、いつぶりだろう。数歩を行きかけた日向が振り返り、きょとんとした顔で首を傾げた。月島は口を開く。意を決して、開く。
「あ…ありがとう! あと、ツッキーじゃなくて、月島、だから!」
「あっ! …へへ、じゃあ月島さん、お仕事がんばってくださいね!」
照れるように肩を竦めたあと、日向が笑って月島に小さくファイティングポーズをしてみせた。嫌味も他意も何も無い、純粋な厚意、頑張ってという、応援。店で見るのと同じくらい、いや背景のせいだろうか、それよりずっと快活な笑顔の印象を残して、日向の背中は小さくなってゆく。
「………がんばろ」
月島は小さく呟いて、さっさと問題の印刷所へ向かうべく、足を速めてその場を後にした。