二口くん、誕生日おめでとう。四年目
社会人ともなれば、カレンダーは黒字の平日と赤字の土日祝の区別しかない。さらにシフト制で働いていると、黒も赤も関係無く、出勤かそれ以外だ。俺の場合は定休日もある店舗で働いているので、ある程度は定期的な繰り返しになっているのだけれど、まぁ、例外だってあるわけで。
「じゃあ、あとは自由解散ということで…」
取り仕切っていた人物の発言を受けて、参加していたひとたちが口々に「おつかれさまでした」と言い合った。一泊二日の研修は、これにて終了だ。全国チェーンではないが地域には何店舗か展開している会社で働いている俺たちには、年に一度、こうして一堂に会す…といっても一度に全員ではないけれど、そういう規模の研修が課されていた。変化していく技術情報や業界の状況の共有だったり、初心に立ち返るような安全確認だったり、様々な講習を受ける。「命と夢を乗せ、この『志事』で未来に向かう」というのが企業理念で、この研修もその実現の一環だ。つまり、会社から義務付けられている、回避不能の研修なのだ。とはいえ、研修自体はまぁ別に良い。入社しているくらいなのだから、企業理念だって充分に理解している。ただ、
「…あれ? 二口、今日おまえ誕生日なの?」
「えっ、あ、ハイ。そっす」
そうなのだ。今日、俺は、誕生日なのだ。ぺらぺらと参加者名簿をめくり、出欠や受講状況を確認していた他部署の上司が、ふと気付いたように俺に問う。会社全体で決まった日程と、各店舗のシフトのすり合わせの結果、俺の研修は誕生日に被った。俺一人に配慮して研修日程を動かせるわけもないし、そもそも俺自身、誕生日当日に拘って絶対に休みを取りたいなんて強い意志も理由も無いし。
「マジか! おめでと!」
「誕生日ですか、おめでとうございます」
俺と上司の会話に気付いて、周りの何名かがお祝いをしてくれる。これはこれで、いくつになったって悪い気はしないものだ。ありがとうございます、と御礼を言っているうちに話が広がって、やがて率先して声を上げた同期の「二口くーん、誕生日おめでとー!」の音頭に合わせ、研修に使われていた会議室全体で拍手まで起こったのだから、笑ってしまう。まるで小学校くらいに戻ったみたいな瞬間だった。



そんなことがあったのが研修終わりのことで、そこから電車を乗り継ぎつつ、俺は最寄り駅まで戻ってきていた。同期は夕飯でもと誘ってくれたが、彼は俺よりも遠方から来ていて、明日も仕事だというのに付き合わせるのも気が引けた。駅を出て、自宅に向かって歩き出す。街の中心部から散っていく電車がもう比較的空いていたのと、平日の夜という条件も手伝って呑み屋の並ぶ区画にも人は少なかったこと、そんな些細なことが誕生日の夜を少しだけ感傷的にさせた。去年がわりと派手に祝われたから、というのも、ある。まぁ派手さでいえば、会議室の大拍手も凄かったけど。別に、来週末には「遅くなるけど、みんなで飯でも」と誘われていて、実質、今年だっていつものメンバーに…日向くんに、祝ってもらえることには変わりない。いつのまにかワガママになったなぁ、なんて自嘲する。今年、日向くんはコンペだかコンテストだかで、夏の終わり、10月頃にはもうわりと忙しくしていた。数歩先に見えるコンビニの前、貼ってあるポスターで芋蔓式に思い出す。クリスマスケーキを題材にするオーディションみたいなもの、と説明されて、「まだ夏じゃね?!」と驚いたのを覚えている。でもよく考えたら11月には各所でケーキの予約が始まっているのだから、それの準備とすれば早くもないのか…と、業界の違いに感心したものだ。ああ、夕飯どうしようかな。適当にカップ麺のストックでも良いけど。日付がちらりと頭を過ぎるけれど、また改めて祝われるわけだし、日向くんと出会う前、実家に居た頃は「ちょっとイイ飯が出る日」くらいの認識だったから、そんなに張り込んで食べる気にもなれない。考えているうちにコンビニから出てきたひとを避けてしまって、ああそうだ家に一回荷物置いて、牛丼屋とかでいっか、と思い至る。一泊二日の荷物は多くないけれど、牛丼屋は駅からウチのマンションを通り過ぎて少し行ったところにある。ついでだ。とりあえずウチ帰ろ、と歩を進めてしまうことにした。街灯が少しずつ減っていく。暗いというほどではないけど、住宅街になってきたなぁと思う。マンションは駅からさほど遠くない場所に立地していて、治安も悪くない。たぶん単身者が多いんだろう、このくらいの時間だとたまに出入りで会うこともある。あぁ今も、少し広くなっているエントランスのスペースにひとか、げ、え、えっ?!
「あ。ラッキー」
「は?!」
近付いた俺を見つけてゆらりと動いた人影は、日向くん、だった。は? え、は?! それ以上の感想が出てこない。びっくりし過ぎて思わず立ち止まった俺に、「ビビり過ぎ! ホラー感はないでしょ」と、日向くんは笑って寄ってくる。ほん、ものだ。
「え、なんで。いや、えっ、あ、え?! 約束してたっけ?!」
「いやしてないっす、大丈夫。今日、仕事とは聞いてたから店舗行ったんですけど、青根さんしか居なくて。研修って聞いて」
「え、あー…うん、そう、ごめん」
そうだ、確かに仕事だと伝えた覚えがある。忙しい日向くんや他のメンバーとすり合わせて、夕飯の日付を決める時に、そう言った。研修なんてわざわざ言う必要ないかと思ってたけど、いや、伝えた方が良かったんだろうか。俺が咄嗟に謝罪を口にしたら、しかし日向くんは「謝ることじゃねぇ!」とツッコミの口調でからりと笑った。
「で、青根さんが先週で、このくらいの時間には戻ってきたって教えてくれたから、せっかくなんでハリコミしよーと思って!」
「張り込み」
「そ! さすがに牛乳とあんパンはやめたんですけど」
どうでも良い。いや居たこと自体はどうでも良くないんだけど! 日向くんは、まるで楽しいことをしていたかのように言うけれど、待ってだってそれ、ここでしばらく待ってたってことでしょ。別に治安は悪くないし、駅もコンビニも遠くないし、そんなに不便はないかもしれない、けど、でも、「なんで」。
「いやもうコンビニにあんパン無くって。まんじゅうなら値引きされたヤツあったんですけど、それは違うかなって」
「いや牛乳とあんパンを食べなかった理由じゃないよ!」
ほんとそういうボケするよねキミね?! 思わずツッコめば、「デスヨネ!」なんて返ってくるので、本当にもう! 日向くんはひとしきり笑ったあと、「だって」とまだ少し笑いの滲む声で言う。顔を上げる。
「二口さん、今日、誕生日でしょ」
「…うん」
「せっかくだから今年も、当日にもお祝いしたいなって思って。今度行くのは、鎌先さんのおすすめの店だし」
「あー…うん」
だから、今日、コレ。そう言って掲げられた、両手で持つくらいの大きさのケース。自宅で作ってきたことが一目でわかる、いかにも私物の保冷バッグだ。ああ。頬が緩みそうだし、なんなら目が、潤みそう。声の震えを隠して絞り出した音では、気の利いた返事ひとつできなかった。今年も。もう、日向くんにとっても、定番みたいな感覚になってきているのが、めちゃくちゃ嬉しい。来週は、予定が合わなかった鎌先さんが「俺、ここの常連だから!」と用意してくれた店舗だから、楽しみではあるけれど日向くんが何もできないことも判っている。判っていた。から、納得していた。つもりだったのに。掲げられた保冷バッグに、今年の、ケー「ところで」キ?
「今回フルーツめっちゃ乗っけたプリン・ア・ラ・モードみたいなの作ってきたんで、良ければ早々に冷蔵庫に入れてほしいんですけど」
「それけっこー持ち運びのハードル高かったね?!」
「うっそ、固形の範囲内だしコケなきゃ大丈夫ですよ!」
飴細工とかしてるわけじゃないし! と付け足される言葉が、いったいどれほどの保証をしているのか俺には判らないけれど。思わず御礼より先に言ってしまった軽口は、ぱこんと響くように同じ温度で打ち返された。いつだって事あるごとに思ってるのに、今年もまた、日向くんがすきだなぁと、思う。
「…ねぇそれ、ふたつあったり、するよね?」
俺たちの間にある保冷バッグにちらりと視線を落として、おずおずと強欲な発言。ちぐはぐな仕草を笑うこともなく、日向くんは少し顔を寄せて声を潜めて、まるで密談でもするように頷く、「バレました? 俺の分です」。マジで、ほんと、びっくりするくらい、好きが更新されていく。
「だよね知ってた超ありがとう! ねぇそれ冷蔵庫に入れてさ、俺、夕飯まだだから牛丼食べようと思ってたんだけど、どう?」
「やったぁ! 俺、こないだから始まってるアレ、あの、しゅるくれり、食べてみたかったんですよね!」
「うーん全然言えてねぇな!」
笑い合って、エントランスの方へと一歩踏み出す。牛丼なんてファストフードの提案も、嫌な顔ひとつせず楽しんでしまえる日向くんは、エレベーターが下がってくるのを待つ間、まだもごもごと「しゅく…しゅる…」なんてうろ覚え選手権をしていた。ああ、そうだ。
「ね、日向くん。祝いに来てくれて、ありがとう」
「え? あっそうじゃん! 二口さん、誕生日おめでとうございます!」