二口とひなたと大雨の話
 仕事が終わったら夕飯を食べに行こう、と約束をした。二口の働くバイクショップや日向の勤めるケーキショップがある大通り沿いに、気軽なイタリアンの呑み屋が出来たらしいのだ。店の常連のひとから聞いたんです、と日向が持ってきた情報に「へぇ、けっこー近いトコに出来たんだなぁ。行く?」と軽いノリで二口が提案したのが、本日の昼間の会話だった。「わぁい行きます!」と二つ返事で日向は答え、現在時刻は20時過ぎ、バイクショップの閉店後に店舗へとやってきた。
「二口さん!」
店舗の裏口、壁にもたれて待っていた二口の姿を見つけて、日向が弾んだ足取りで近寄ってくる。二口も応えて体を起こし、「お。来てもらっちゃって悪いな」、操作していたスマートフォンをポケットにしまった。
「全然! こっちからの方がちょっとだけ近いですし! 通り道!」
にこりと言葉通り気にしていない笑顔を見せて正面に立った日向に、「まぁ確かに」と二口も釣られて笑う。それから空を見上げ、打って変わってため息に似た温度を吐き出した。
「しっかし、すげぇ降りそうな天気になってきたよなぁ。日向くん、傘とかある?」
「…あると思って訊きました?」
「デスヨネ!」
問われた日向が逆に自信満々に訊き返してくるので、二口も思わず同意してしまった。しかしそれも仕方が無いだろう。朝も昼間も晴れており、天気予報だってせいぜいが「午後は曇りがち」といった表現だったのだ。それが、夕方頃から「各地で大気が不安定です」という言葉が散見されるようになった。今も、日が落ちたということを差し引いてもどんよりと暗い空が広がっている。
「歩くからなぁ、途中で降らないと良いけど」
「やばいですかね?」
「んー、雨雲レーダー見るとこの辺、もう降ってることになってんだよね」
先ほどまで見ていたスマートフォンを再び取り出して、二口はアプリの画面を開いて見せた。日向も覗いてみれば、確かにこの周辺地域の色は濃いし、この場所自体も薄く色づいていて、データ的には雨天となっている。
「コンビニ寄って、傘買ってからの方が良いかなー」
「ワンチャン、走り切れません?!」
「日向くん元気だね?!」
二口の無難で大人な提案に、ぐっと意気込んで拳を作った日向が顔を上げる。近さに思わず仰け反ってツッコんだ二口、そして遮る影がなくなったスマートフォンの画面に、ぽたり、落ちるものがあった。
「…え?」
思わず日向が画面を見つめる。水滴。水滴だ。二口は辿って、発生源たる空を見上げた。まさか。
「あ」
嫌な予感に、すっと確かめるように手のひらを上向けて差し出した、瞬間、「「うわ!」」。ざぁっと前触れもなく勢い付いた雨が降り出してきた。
「ちょ、やば!」
突然の本降りに見舞われて二口は、いったん閉めていた裏口、事務所の鍵を取り出した。部外者を入れることになってしまうが、知らぬ他人ではないし、緊急事態ってやつだ。
「とりあえず中はいろ!」
「あざす失礼します!」
屋根も無い裏口、雨の直接攻撃に為す術もなく、立っているだけでも瞬く間に髪や服が水分を吸っていく。ガチャガチャと焦って扉を開けて、とにかく中へと避難することにした。
 「はー…タオル探すわ、待ってて」
「はーい」
バタンと扉を閉めてしまえば、もう、雨の猛攻を心配する必要は無くなる。二口は、ほっとしたように息を長く吐いて、ロッカーだろうか棚を開け始めた。歩き回ったら辺りを濡らしてしまうかもしれない、元より本来なら自分が入るところではないことも判っているのだろう、日向は大人しく扉の辺りで立っている。傍らに置かれたテーブルに荷物だけ置かせてもらって、そして、大きな窓に気付いた。開けて良いですかと断ってから、日向は下ろされたロールカーテンを引き上げて、「ひえぇ…」。
「すっごい雨…!」
「ん、これ使って。ってうわほんとだ、やべーな」
タオルを渡した二口も倣って、外界を映す窓の外を見る。休憩スペースとして机と椅子が置いてある一角は、大きな窓に面しており、外の様子がよく見えた。ばつばつと大きな雨粒が窓に当たり、当たった傍から幾筋もの流れを作って落ちていく。どうやら風も強くなったようで、近くの木々がざわついているのが暗がりでも判った。裏口の前には駐車も出来るようスペースがあるが、砂利交じりだった地面はもはや水たまりを通り越して、水の中に砂利があると表現した方が早いような様相だ。
「やばー…」
「途中じゃなくて良かったわ」
乱雑に頭をタオルで拭いて、二口が答える。その通りだ。服の方はとりあえず上着を椅子に広げて掛けて、あとはまぁちょっと濡れた感もあるが放っておいても大丈夫だろう。どうしようもないし。二口の仕草に気付いて、同じく受け取ったタオルを被っていた日向も上着を脱いだ。ガタガタと椅子と床がこすれる音。長丁場になるだろうか。並んで座る。
「やみますかね」
「うーん…予報的には通り雨っぽい感じもするけど、でも、うん、行くのは遅くなるかもなぁ」
ぼんやりと窓の外を見つめる日向に、二口はスマートフォンを取り出す。アプリを確認するが、現在地の色は濃くなったものの、先ほど濃かった地域は薄まっており、雨は移動している感じを受ける。
「雨の音、すげぇ」
面しているのは裏通りといっても、時々自動車が通る。水を跳ね上げて進んでいくのは見えるのに、こちらに届いてくるのは雨の音ばかりで、相当激しい雨なのだと否応なく理解させられた。ゲリラ豪雨、というほどではないのかもしれないが、それでも暴力的だ。
「あー、一応、営業はだいぶ深夜までやってるっぽいけど」
二口はどうやら目指していた店舗の営業時間も調べたらしい。幾つか操作をして、そのままスマートフォンの画面を暗く落とした。「あ、そうなんですね。良かった」と、外を見ていた日向が、視線を戻す。戻して、笑う。
「じゃあそれまで、二人きりですね」
「へっ」
突然の言葉に、置こうとしていたスマートフォンが目測を誤ってゴトンとテーブルに放られた。驚いて次の句が継げずに、続く日向の爆弾を、無防備に受けることになる。
「外も誰もいないし、そもそも雨しか聞こえないし、世界に俺らだけみたいじゃないですか?!」
「な、るほど」
小学生的な、発想なんだろうと思う。思うけれど、二口にとって、大ダメージだ。いや、逆に過剰なリカバリーなのだろうか。外の雨に負けないくらい激しく打った心臓に、気付かれないよう小さく深呼吸を繰り返す。びっくりした。びっくり、した。している。ああ。
「やむまで何しましょーか! とりあえず、んー…しりとりとか、しときます?!」
「っふ、なんでだよ。じゃあ、雨の『め』」
「ノるんじゃん! 『め』ですか、『め』、『め』ー」
最初の単語に、何を迷うことがあるのだろうか。噴き出してしまった二口は、机に肘をついて、文字を繰り返す日向を眺める。雨の音がする。日向の声が、する。
「あっ『メレンゲ』!」
「『げ』?!」
しょっぱなからトバすんじゃねぇ、と笑って、二口はスマートフォンをポケットにしまった。世界に、ふたりきりだ。雨はまだ、やみそうにない。