二口さんと出かける話(ちょっと暗いかも)
 夏になる前の雨がちな日々、その日は梅雨の晴れ間というには心許無い空だった。雲が多く、暑いとも寒いとも言えない温度は適温なのかもしれないが、湿度を伴ってしまって不快感を呼ぶ。どんよりとした、お天気お姉さんが傘の携行を推奨しそうな日。
「…二口さん、海、見に行きましょう」
「…車、出せば良いの?」
定休日で家に居た俺のところへ、日向が訪ねてきた。以前、終電を逃したコイツを泊めてやったことがある。その時は黄金川や青根も居たのだけれど、今日は一人だ。俺の家、覚えてたのか。玄関先で、半ば下げた状態の彼の視線からは、何も読み取れなかった。身長差も相俟って俺からは、日向のつむじや跳ねた髪ばかりが視界に入る。半袖のシャツから伸びる腕が細い。ボディバッグは薄く、財布とケータイくらいしか入っていないのだろう。
「電車でも、大丈夫です」
「…バイクでも良い?」
淡々と返された言葉に、俺は少しだけ考える素振りをしてから提案した。すると日向はちらりとだけ視線を上げて、「ハーフメットしかないですけど」と言う。
「俺が持ってる。ちょっと待ってろ」
「はい」
俺の言葉に、小さく返事をして頭を動かす。最小限の動作、最小限の声。コミュニケーションというよりも、ただの伝達だ。俺は部屋から、財布とバイクのキー、予備のヘルメット、長袖のパーカーを引っ掴んで、玄関に戻った。
「バイク乗るなら着とけ。俺のだから、ちょっとデカいと思うけど」
パーカーを日向に押し付け、その背を追い出すように促して玄関を出る。階段で下へ降りることにして何も告げずに歩き出した俺に、日向はパーカーへ袖を通しながら大人しくついてきた。今日は、休みだっただろうか、コイツ。そんな連絡は受けてなかったけど、まぁ確かに、いちいち休みを全て把握するような間柄というわけでもない。俺の方は定休日が在るので、時間はまちまちになる時もあるが、基本的には同じサイクルを繰り返している。対して日向は、店自体には定休日もあるが仕込作業や修行的なものもあって、実質の休みは不定期だ。暇な日があると連絡してきて、二人で会ったりみんなで会ったりするのが常だった。うちの店にも時折、メンテナンス目的以外でも日向は顔を出すし、俺の方も偶におやつを買いに行く。まぁケーキ屋に行くのは、青根の方が頻度が高いのだけれど。
「バイク、乗ったこと在ったよな」
「一応」
つらつらと考えながら歩いている内に、直ぐに駐輪場に着いた。掛けていたカバーを外して片付ける。確認すると、日向は言葉少なに頷いた。いつだったか、もっと出会って間もない頃に、青根がバイクに乗せたことが在ったはずだ。試乗も兼ねていたから軽く辺りを流すだけだったけれど、随分とはしゃいでいたことを思い出す。メットを渡して、バイクを準備して、日向に後ろに乗るよう促した。

 場所の指定は、無かった。海で良いの、と動き出す前に尋ねたら、こくんと頷いてそれ以上のレスポンスは無かったので、適当に、海っぽい方向へ走ることにした。当てずっぽうというほど雑ではないけれど、知っているというほどの道でもない。走りやすそうな道、海の方角、道路標識、そんなものを頼りに進む。最初こそ恐る恐るという感じで腰に回されていた両手は、いつの間にか、ぎゅっと指先にまで力が込められきちんと掴まれていた。四肢から振動が響いていく。心地良いリズムが心臓を動かす。空気を裂いていると感じる時がある。カーブで重力を受けて、たとえ人工物を介していても大地を走っているのだとも実感する。背中からゆっくりと温度が伝わる。隙間は消えていた。走り続ける。

 どれくらい経っただろうか。
「ひなた!」
呼んだ声はあまり聞こえてないだろう、けれど少し身じろぎしたことは伝わったはずだ。俺は一瞬だけ、きらりと光る景色を指し示すように顔だけを横へ向けた。そんな俺につられたのか背中の温度が少し下がる、空気がまざる、それからまた、取り戻すようにぎゅっと上がった。空気に潮が混じり始めていた。海が、近付いている。
 速度を徐々に落として、生活道路にも似た道へ入っていく。近い。繁忙期には、駐車場になったり更衣室になったり海の家になったりするのだろう。緩やかなスピードで抜ける道は今、一様に息を潜めていた。幹線道路から離れるにつれて頻繁に車が行き交う音も遠退いて、線路が近いのだろうか、偶に遮断機の下りる音が微かに聞こえる。バイクの振動だけが大きい。あ。
「うみ」
緩やかに上っていた道が唐突に行き止まって折れる。目の前は開けて、海。季節外れのそこには人が殆ど居なくて、天候も手伝ってか、遠くに釣り人の影が疎らに見えるだけだった。暫くゆっくりと海沿いの道を走って、バイクの気軽さと人の居ない場所への横柄さで、砂浜の近くに停車した。エンジンの音が消え、すっと世界から一瞬だけ音が無くなって、すぐに人の生活する喧噪が戻る。メットを脱いで、潮というよりももう磯だろうか、海の匂いを肺一杯に吸い込んだ。
「海、ですね」
「おー」
隣で同じようにメットを取った日向が、ただ広がった海を見詰めて呟く。バイクの停められた場所から、岩交じりの浜、白っぽい砂浜を経由して、色の濃さが変わった波打ち際、まだだいぶ遠い。動きもせずに海を見詰める日向に向かって手を差し出したら、こちらをさほど確かめることもなく、素直に…というより無意識にかもしれない、メットを寄越した。そして身軽になった日向は弾かれたように、大きめのパーカーをひるがえして走り出した。
「転ぶなよ」
掛けた声は、恐らく聞こえないだろう。たいした大きさの声でもなかった。砂浜に到達した日向は、靴を脱いでズボンをめくって、波打ち際をふらふらと右へ左へと歩き出した。ついた足跡が波に流されて消える、消える傍からまた踏みしめる。誰も居ない海は少しだけ暗く映るけれど、随分と走ったせいか、どんよりとしていた空はまだ晴れ間こそ無いものの白い雲ばかりで、出てきた時に見上げた雨の降りそうな空とは様相を変えていた。
「二口さん!」
呼ばれて俺は、日向へ視線を向ける。いつの間にやら、パーカーの袖もまくり上げて俺に大きく手を振っていた。しかしぶんぶんと両手を振ったことで、俺のパーカーはやはりいささか大きく、ずるずると袖が手元へ戻っていく。バイク降りたんだから、それも脱いでいけば良かったのに、と小さく笑ってしまった。
「二口さんってばー!」
「はいはい、しゃーねーから行ってあげますよー」
タオル持ってきてねぇんだけど、なんて肩を竦めて、手にしていたメットはまとめてバイクの上へ置いた。俺も、砂浜へと一歩踏み出す。はやくー、と声を上げた日向に「はしゃぐと転ぶぞ!」と今度こそ届く大きさで投げかけて、俺は歩を速めた。