二口さんと自動車に乗る話
 日向が住んでいるマンションの下まで迎えに来た二口の車を、まじまじと見て日向が言った。
「おぉ、すげー。俺、あんま車って乗らないんですよね」
特にどこが変わっているわけでもない、よくあるタイプの自動車だ。日向は車種などには詳しくないので世間的なところはよく判らないが、思ったよりコンパクトだな、という印象だった。
「そうなの? じゃあ普段は電車? あー、原付あるもんな」
「そっす! ずっと自転車で、免許取ってからは原付乗ってるんで、免許あるけど超ペーパーです」
「まぁ別に、無きゃ無いで済むもんなぁ」
車が無いと絶対に不便、というほどの田舎には住んでいない。交通網はそれなりに発達しているし、原付があれば多少遠くの買い物などは事足りるだろう。
「二口さん、車も好きなんですか?」
「うーん、好きってほどでもねぇけど、まぁ、フツーだな。在ると便利だぞ」
「あーまぁそうスよねー」
「そうそう、お前とかデートに誘えるしな?」
「あっは、チャラ男だ!」
茶化すように告げられた言葉に、日向がけらけらと笑う。実際、今日の約束の発端は、日向が雑誌で見ていたケーキショップが、県をまたいで電車の通っていない場所にあることだった。原付のメンテナンスを兼ねて二口の働くバイクショップで昼食をとっていた際に、雑誌を見ながら「あー車ないと無理そう…」と思わず独り言を呟いたところ、「俺が出してやろーか?」という提案を受けたのだ。
 「中、けっこー広いんですね」
「おー。まぁでも、青根と乗ってっとさすがに狭い気もするけどな。ほら、お前はチビだから」
「頭ぶつけてしまえ」
「ひっど」
二口が開けた助手席に乗り込みながら、日向は物珍しそうにきょろきょろと車内を見渡す。ほとんど一人か二人で乗ることしかないのだろう、限界まで後方へ下げられたシートは外から見るよりもずっと広かった。車内に物は少ない。機器類の上にも何があるわけでもなく、エアコンの噴き出し口であろう部分に消臭剤っぽいものが取り付けられていたりするだけで、特に装飾があるわけでもなかった。運転席側に乗り込んだ二口が小さく笑って、「ほら、シートベルトしろよ」と促した。
「あぁ、そっか、えっと」
「ま、安全運転はするけどな。音楽かけて良い?」
「あハイ、良いっす」
日向の返事に、二口は慣れた様子で幾つか操作をする。その間に、日向はぐっと独特の光沢のあるベルトを引っ張り出して、かちゃん、どうやら、装着したようだった。
「ちゃんとでき…ぶっは! おま、首くくりそーじゃん! 位置下げろよ!」
「え、えっ?」
小さく流れ出した音楽を確認して顔を上げた瞬間、二口は盛大に噴き出した。からかいも含んだ声を隠すことなく、何してんのと笑う。対する日向は、きょとんとした表情で見返すしかない。確かに指摘通り、装着したシートベルトは首筋を舐めるように通っており、本来ならば肩付近を通過して身体を斜めに横切るようにガードしているはずの存在が、日向のそれはまるで間一髪で罠を避けたかのような危うさを伴っている。
「最後に乗ったの青根だしなー。ほら、意地張ってねーで危ねぇからちゃんと締めろ」
「いや、その」
「ん? さすがにそれ、一番下じゃねぇだろ?」
「えっと、その、なんのことだか、さっぱり」
「ん?」
すみません、と申し訳なさそうに謝る日向に、二口の動きがぴしりと固まった。一拍遅れて、「…あぁ、そっからか!」と合点がいったように声が上がる。それにびくりと反応した日向へ、わりーわりーと笑って、「じっとしてろよ」と続けて告げた。言われるがまま息を呑むように動きを止めた日向、助手席側へと二口が身を乗り出す。ぐっと日向の向こうに右手を伸ばして、シートベルトの起点たる装置を掴んだ。しかし掴んだものの力が旨く入らなかったのか、中央、コンソールボックス辺りに突いた左手を助手席の端の方へと移動させる。その分だけ、体躯は日向に近付いた。身長差も相俟って息苦しさなどは感じなかったが、急な近さに日向は思わず縮こまってしまう。そして手のやり場に困って、ぐっと腹の辺りのシートベルトを掴んだタイミングで、頭の横、二口がそのシートベルトの起点をがこんと下げた。途端、首筋を切るように舐めていたシートベルトが離れ、肩かけかばんの紐のように緩やかな拘束に変化していた。
「ん、オッケ」
「あ、ありがとうございます」
言って二口が用の済んだ起点から手を離し、運転席側へと体の重心を戻す。突いていた左手も解放、今度こそ発進の準備を行おうと前を向く直前、幾らか余裕を持った日向が、なんか…と呟きかけた。
「ん?」
「なんか、二口さん、イイ匂いしました」
「ぶっ! …そりゃドーモ」
予想外の台詞に盛大に噴き出して、呆れたていで返答する。けれど「なんだろ、香水とか付けてるんですか?」なんて至極真面目な顔で首を傾げて尚も続ける日向に、ちらりと視線をやってしまう。当の本人はさらに、「うーん、いつもと違ってバイクとかの匂い、しないからかな…」。二口は、ブツブツと続いている言葉を聞き流し、諦めにも似た気持ちでキーを回した。本当に、こいつは。
「…言っとくけど、お前だっていっつも甘いよーな匂いしてっからな」
「ぅええ?! 砂糖臭いとかそういう?!」
「あーハイハイ。出発しますよー」
「ちょ、二口さん?! えっ、俺それ、変な匂いとかじゃないですよね?!」
そして騒ぐ日向をよそにハンドルを切る。二人を乗せた車は滑らかに走り出した。道のりは、まだ、始まったばかりだ。