けんひな/アップルパイ持ってくるひなたの話
 夕方近くになって、クロが打ち合わせから戻ってきた。いつも無駄ににやにやしている男だとは思っているが、今日は輪をかけてにやにやしている。その上、わざわざ俺のデスクに寄ってきて、「けーんまクン、ただいまぁ」とか言ってきた。なんだ。
「なにクロうるさい。…おかえり」
「へーへー。あんがと」
一応は挨拶を返せば、ひらひらと手を振って自分の席へと向かう。途中、リエーフにも「なんかめちゃニヤニヤしてて気持ち悪いっすね!」と言われているから、やっぱり、今日のクロは相当にやついていると思う。まぁ言ったリエーフはお決まりのようにポコンと頭をはたかれているので、言わぬが花って気もするけど。と、思っていたら。
「ん?」
ムームーと、突然スマートフォンが震え出した。そりゃ予告があっても気持ち悪いけど…時刻は16時の少し前、今日ってなんかソシャゲのイベントとかあったっけ? 覚えが無くて、俺は首を傾げながらスマホを手に取っ、え、エッ!
「おっ、キタかなぁけんまくーん?」
スマホはメッセージの受信を告げていた。送信元は、送信元は、翔陽だ! クロとか一気にどうでも良くなる。なに、翔陽、なに! 俺は逸る気持ちを懸命に抑えて、とにかく画面をタップした。そして。
「ちょっ…と出てくる!」
「えっ、研磨さんが?! めっずらしー!」
リエーフうるさい! と俺は脳内だけで返事をして、スマホを手にしたままバタバタと扉の方へ向かった。普段は何も思っていないパーテーションやドアがやたら邪魔なものに見える。クロが使ったあと、また下降を始めていたエレベーターのボタンを連打した。早く。早く。早く!
 「翔陽!」
自分でも、久々に大きな声を出したと思う。一階に広々と作られたエントランス、壁に作られた各階の備え付けのポストと案内を眺めて、翔陽が立っていた。俺の声にばっと振り返って、「けっ、研磨!」、驚いたように目を丸くする。
「なんで驚いてるの。自分で呼んだくせに」
「そうだけど。だってそんな急いで来てくれるなんて思ってなかったし」
まぁ、うん、声も態度も、ちょっと、俺の中の超特急だったことは否めない。それでも、驚いたのも束の間、俺に指摘されて拗ねた顔で口を尖らせた翔陽には笑ってしまう。焦燥にも似た気持ちも何もかもが全部吹き飛んで、「それで、どうしたの」、出てきた声は我ながらずいぶんと優しかった。俺の問いかけに気を取り直したのか、「あーそうそう」と相槌を打って翔陽が頷く。
「研磨さぁ、前に、アップルパイ好きだって言ってたよな」
「え、うん」
確かに言った。自分はパティシエ見習いだと翔陽に打ち明けられた流れで、アップルパイが好物だと告げた。その時に翔陽が、「甘いもの好きなんて仲間!」とテンションを上げて、すぐさま「でもウチの店にアップルパイ無いや…」としょんぼりして、ジェットコースターみたいに感情が変わるのに圧倒されたのを、よく覚えている。
「今日、休みだったから色々ケーキ屋さんに行ったんだけど、そこで食べたアップルパイ、超おいしくってさ!」
「うん」
「だから、研磨にもと思って、買ってきた!」
「うん。…え?」
「はいこれ!」
「えっ?」
凄まじい、というのが最初に飛び出そうになった感想だ。慌ててごくんと呑み込む。いやだって、すごいを通り越してるでしょこれ。俺が好きなものを覚えててくれたのは嬉しいし、俺のことを思い出してくれたのも嬉しい。でもそれを購入して、あまつさえ持ってきてくれるって、相当、相当じゃないか? 驚き過ぎて、俺は固まってしまう。俺には、真似できな「…やっぱ、迷惑だった?」、え?
「さっき黒尾さんとすれ違って、飛んでくるだろうから連絡しなって言ってもらったから、連絡しちゃったんだけど。でもそうだよな、研磨は仕事中なワ」
「大丈夫!」
遮るようにして飛び出したのは、本日二番目の大声だった。自分のポテンシャルも中々だなと冷静過ぎる脳内の片隅が考える。いやそんなことより、目の前。目の前の翔陽!
「ごめんね。うれしくって、びっくりして、固まっちゃった」
「…だいじょぶだった?」
「大丈夫。全然、大丈夫。そもそも、ウチがめちゃめちゃ緩いの、知ってるでしょ」
「っふふ、ウン」
俺が言い募ると、ようやく安心したのか、翔陽ははにかむように笑ってくれた。良かった。そうして、改めて「じゃあハイ、これ」と持っていた紙袋を差し出してくれる。翔陽の胸の辺りに掲げられたそれは、わりと大きいような気がする。少なくとも、アップルパイのピースがひとつ入っているだけだとは思えない。これ、もしかして。
「ホールで買ってきちゃったから、黒尾さんとか、みんなで分けてね」
にこ! そんな効果音が付きそうな笑顔だった。晴れやかなそれにくらくらしてしまう。いろんな意味で。分けろ、分けろって? せっかく翔陽が俺のことを思い出して購入してくれたアップルパイを? みんなで? 分けろって?
「…ヤダ」
「なんで!」
俺の大人げない発言に噴き出してツッコんだあと、翔陽はけらけらと笑った。たぶん冗談だと思ったんだろう。俺は九割くらい本気なのに。まぁでも、冗談だと思ってくれる方がありがたいけど。心証とか、あるし。とりあえず手を出して受け取った俺に、ぎゅっと紙袋を握らせて「それじゃあ俺、そろそろ行くな」と翔陽が言う。
「研磨、わざわざ来てくれてありがと! 仕事中にごめんな?」
「そんなの、こっちの台詞だし。翔陽こそ、わざわざ持ってきてくれてありがとう。本当に、うれしい」
俺の告げたお礼に、どういたしまして! と翔陽は朗らかに笑った。必要以上の謙遜も無く、こうやって、明るく笑ってくれるのはとても眩しい。とても、好ましい。普段、陰気だと言われがちな俺の表情も、自然と綻んだ。まるで、太陽の熱を受けて温まったみたいに。
「じゃあ、仕事がんばってな、研磨!」
「うん。気を付けて帰ってね」

…そうして持ち帰ったアップルパイに、クロが普段の五割増しくらいニヤニヤニヤニヤして、「俺がチビちゃんの背中押してやったおかげだろ、け・ん・ま・クーン」とか言ってきたのが、心底鬱陶しい。隣で「すげぇ! めちゃイイニオイ! 冷めてもイイニオイってヤバくないですか! すげぇ!」と騒ぐリエーフくらいの可愛げがあれば、百歩譲ってそれなりに分けてやろうと思うのに!