けんひな、リエ日/鉄朗さんのオフィスでおしるこ作る話
 簡単な調理くらいなら出来るよう、ミニキッチンが備え付けられている給湯室。普段はコーヒーの香りがすることも多いそこが、いま現在は、ふわふわと甘い匂いを漂わせている。発生源たる日向の目の前の鍋からは、ことこと、ふつふつと、ごく小さく音がする。ふたはしていない鍋、機嫌の良さそうな顔で時折かき混ぜては様子を見ていた。もうかれこれ一時間以上、日向はこの鍋にかかりきりだ。中に入っているのは随分と濃い茶色、黒にも近い、小豆色。オフィスビルの給湯室なんて似つかわしくない場所で作っているのは、汁気たっぷり、すこしばかり豆の潰れたおしるこだった。
 「うわあ…めちゃめちゃ良い匂いしてきた…!」
そして給湯室の外、思わず、動かしていたはずの灰羽の手が止まる。そもそも我慢がしきれずに、給湯室に続くこの多目的ルームの掃除を始めたのだ。が。
「てっめリエーフ、ここの掃除は後っつったろ! つかお前は自分の作業スペースの整理してこい!」
「えーっ! 俺的カンペキ配置っすよ、あれはー!」
すんすんと鼻をひくつかせ、頬を緩ませていた灰羽の後ろからスパコンと軽い音がして、その頭が小さくも確かに揺れた。途端にぷすうと口を尖らせて反論する灰羽に、仁王立ちした黒尾が「うるせぇ!」とぴしゃり言い放つ。
「せめて配線だけでもすっきりさせろ! いろんなモン、ごちゃごちゃ置きやがって…!」
「逆にアーティスティックじゃないすか?!」
「じゃねーわ! 発火でもしたらどうすんだよ、ハイ今すぐ行く!」
尚も言い募っていた灰羽も、黒尾の安全を憂慮した言葉にはさすがに逆らいきれるものではなかった。肩を竦めて一歩を踏み出そうとした瞬間、「ふふ、お疲れですね?」。固く閉ざされていた給湯室へ続く扉が開いて、ひょこりと日向が顔を出した。その手に何やら持っていて、
「もうちょっとだけ頑張れる魔法です!」
ついとそれを灰羽の、ひいては黒尾の目の前へと掲げてみせる。白く平たい、掌に載るほどの小皿。中に入っているのは「わあい味見して良いの?!」、今まさに作っているもののおすそわけ。
「お願いします! 取り敢えず甘さ控えめにしてみたんですけど、どうです?」
逸早く手を伸ばした灰羽が小皿を受け取って口付ける。くんと傾けて、ぱっと目を見開いた。
「美味しい! でも俺的にはもうちょい甘くてもうれしい!」
「じゃあ、もう少し甘くしてみますね」
返される小皿を受け取りながら、日向が頷く。よっしゃ、と喜色をあらわにする灰羽に、黒尾が「ハイハイ、じゃーあとちょっと頑張ってこい!」と背中を押し出した。「うす!」なんて意気込んで、先程とは打って変わって軽い足取りで出てゆく灰羽は、現金そのものだ。小さく笑った黒尾は、しかし仕切り直すようにして日向に振り向く。
「ね、俺には無いの? 黒尾さん、さみしーなー」
「じゃあ入れてき」「翔陽、甘やかさなくて良いよ」
給湯室へユーターンしようとしたところで、言葉に被るようにして、ぴしゃりと孤爪が言い放った。苦い顔をした黒尾に構うことなく、「もうちょっとで出来るんでしょ? じゃあ、あとのおたのしみだよ」なんて言いながら日向の背を押す。そうして給湯室へ足を踏み入れさせて、「俺も、楽しみにしてるね」、にこりと笑ってしまえば。
「おう! 任せて、研磨!」
物の見事に話をすり替えられてしまった日向の意識は、もはやおしるこ一択になるのだった。そして日向を飲み込んで閉じた扉のこちら側、じとりとした視線で無言の黒尾に「抜け駆け禁止」。
「なんで俺だけ?!」

 そんなやりとりをした、数分後。給湯室の扉はいよいよ開け放たれて、銘々キリをつけてきた孤爪、黒尾、灰羽が多目的ルームに揃っていた。
「本当は焼いた方が美味しいんですけど…網も無いのでレンチンしました!」
そうして、「どうぞ!」 と日向から饗されたのは、洋風の器に入ってはいるが、紛れもなく、艶やかな色をした美味しそうなおしるこだ。「すっげぇ!」と真っ先に歓声を上げたのは灰羽で、座るが早いかさっそく口を付けている。次いで「ありがと翔陽」「サンキュな」と孤爪、黒尾が続いて席に着く。
「うわあちょっと甘くなってる! おいしい!」
きらきらと幼子のような目で伝えてくる灰羽に、日向が「良かったです」とくすくす笑う。落ち着きなよ、と溜息を吐きつつも、孤爪も一口含んで「ん」と短く声を上げた。
「すごい。リエーフが言うから甘めかと思ったけど、すっきりしてる」
「ね! 美味いっすよね! 俺これ超すき!めっちゃ」「リエーフうるさい」
跳ねる勢いで同意した灰羽に向かって、孤爪が一刀両断する。よくある光景だ。が、いつもだったらそれでもテンションは高いままだったり、大げさに拗ねてみせたり、リアクションをする灰羽がだんまりになった。んん、と思わず切った孤爪に黒尾、日向も注目してしまうと、当の灰羽は口元に拳を当て、眉を寄せている。
「…リエーフ?」
小刻みに、時々身体が震えている、ような? 器の近くに不揃いで置かれた箸、食べかけのおしるこ、どことなく切羽詰まったような表情に歪んでいる気のする顔。…まさか。
「ちょ、リエーフ!」
「リエーフ、なんか飲め」
「あっ、リエーフこれ!」
ばたばたと慌てだした面々、立ち上がった日向が咄嗟に差し出したペットボトルを引っ手繰って、灰羽はぐっとそれを傾けた。中身がほぼ残っていたお茶が、瞬く間に減っていき、すぐにでも飲み切る勢いだ。十数秒も経たないうちに空になったペットボトル、「っはぁ!」と灰羽が解放されたように息を吐いた。
「死ぬかと思ったー!」
「馬鹿かお前は! よく噛んで食べろ!」
大きく口を開けて胸いっぱいに息を吸う灰羽に、呆れたように黒尾が腹の底から息を吐き出す。その様子をほっとしたように笑って見ていた日向だったが、「あ、てゆか今さぁ!」、唐突に灰羽に腕を掴まれる。
「さっき! リエーフって呼んでくれたでしょ!」
「えっ、あ、あぁ、はい」
ぱちくりと瞬きをひとつ。呼んだっけ、そうだ、確かに呼んだ。日向が戸惑うように頷いたところで、「『うん』って言ってよ!」、灰羽が笑う。腕を取っていた大きな掌がゆるゆると手首へ、手の甲へと落ちていく。改めて指先を取るように握り、「やっぱり、リエーフって呼ばれる方がうれしい」。
「り、リエーフ…さん」
立っている自分を見上げてくる翡翠のような瞳に、日向がたじろぐ。
「さんも要らないよ、リエーフって呼んで、翔陽!」
なんだか頬に熱が溜まるような。睫毛がふるりと震えて、思わずぎゅっと目を閉じてしまいそうになる、前に。
「おー、早く食わねぇと冷めるぞリエーフ」
「もー詰まらせないでよリエーフ」
「あーちょっと二人とも! いま俺、わりとカッコよかったんだから黙っててください!」
日向の答えより先に飛んできた辛辣な言葉に、耐え切れず噴き出してしまう。手を握ったままぶすくれた灰羽は、もう翔陽まで! とますますふくれる。ゆっくりとそれを解いた日向が、ようやっと席に戻った。
「木兎さんと赤葦さんの分もあるし、まだまだ作ってありますからね」
「やったぁ、おかわりしよ! ありがと翔陽!」
ついに大手を振って名前を呼び始めた灰羽に、日向が少しばかり照れたような顔をして「うん、どういたしまして」と頷く。その様子を見ながら「はー…抜け駆け禁止」なんて孤爪が呟いたことは、言うまでもない。