リエ日/灰羽とバタークッキー作る話
 「おっじゃましまーす!」
「おー、入って入ってー!」
日向の平日休みに合わせて休暇申請をした秋の木曜日、日向が一人暮らしをしているマンションの玄関に、灰羽リエーフの姿が在った。これお土産、と差し出した袋には、灰羽が気に入って通っている和菓子店のロゴが入っている。がさりと音を立てたそれを受け取って、日向は「あーこれ新作だ!」と嬉しそうに声を上げた。
「ありがと!」
「いーえー。食べたことないやつにしようと思って」
答えながら、灰羽は日向の後ろについて部屋の中へと入っていく。広くもない、間取り1Kの家だ。玄関から続く短い廊下を抜けると対面式の広めのキッチンを通って、引き戸で仕切られた洋室に辿り着く。日向は引き戸を常に開放しているようで、洋室の先のバルコニーからの日差しも充分、ずいぶん広々とした印象を受けた。
「あれ、なんか作ってたの?」
部屋を検分していた灰羽が、ふと気付いたように首を傾げる。手渡した土産の袋を日向が置いたキッチンのカウンター、よく見ればボウルだの小麦粉だのが置いてあって、作業途中の感がありありと漂っていた。まさか、ずぼらで出しっぱなしというわけでもないだろう。尋ねた灰羽に、日向は「あぁ、うん」と事も無げに頷く。
「バター作ろうと思って!」
「バター?!」
返ってきた答えに、思わずぎょっと声を荒げてしまった。バター? バターって、あのパンに塗ったりするバター?! 灰羽のリアクションが面白かったのか、日向は楽しそうに笑って、「そう、バター」と再び繰り返す。
「リエーフ、一緒に作ろ? おやつ、バタークッキーにしようと思ってさ」
「俺でも作れるの? やるやる!」
日向の提案に、灰羽は二つ返事で頷いた。ぱっと顔を輝かせて、もう「何すれば良い?!」なんて、わくわくを隠し切れない様子で訊いてくる。取り敢えず手洗いをして、さっそく二人、キッチンに並ぶことと相成った。
 「じゃあまず、これ混ぜて! ひたっすら混ぜて!」
「りょーかい! …なにこれ?」
「生クリームだよ」
日向が冷蔵庫からパックを取り出して灰羽の前に置いたボウルに移し、灰羽にはハンドミキサーを手渡した。
「ボウル、ぎゅっと包んで固定したりしないようにね」
「え?」
「手の温度であったまっちゃうから」
ミキサーを渡された灰羽は、なるほど…と呟きながら、そのスイッチを入れる。ヴィーンと軽快な音を立ててミキサーの先が回転を始めたのを確かめて、恐る恐るボウルの中のクリームに突っ込む。
「わっ」
「ビビリすぎ」
途端に波立った表面に手が引っ込みそうになり、釣られて表面を撫でるだけになり、クリームが跳ねて腰が引けた。それをからかうように笑った日向が、灰羽の手ごとミキサーをぐっとボウルに向けて押し込む。良いポジションを把握した灰羽が、「だって…」とへにょり眉を下げながら、ようやく安定して混ぜ作業を開始した。見届けた日向は、デジタルの秤を取り出して手際良く他の材料を準備していく。
「わっわっ、なんかぼそぼそしてんだけど?!」
「大丈夫。水が出るまでやって」
「は? 水?! 水が出るの?!」
「出るの。がんばって!」
形状の変化に右往左往する灰羽を日向がけらけらと笑いながら鼓舞。普段、お菓子作りや料理なんてしないのだろう。灰羽のリアクションはいちいち大げさで、日向には当たり前になっていることにも目を剥いて驚くのが新鮮だ。時折、角度がまずくなるのか撥ねる中身に驚きながらも、灰羽は円を描くように手を動かして、一生懸命にクリームを混ぜている。日向が計量を終え、粉をふるい合わせた頃には「わっ、わ、日向! なんか、出てきた!」、次の歓声を上げる。
「あ、分離した? じゃあ貰うね。ありがと!」
呼ばれた日向は、灰羽からボウルを受け取って目の細かいザルへと中身を移していく。下に用意された別のボウルに、ぼたぼたとクリームから分離した水が落ちていく。「すっげ…」と呟くのを聞きながら、最後の一滴まで落としきった。そして今度は、白い布…サラシで、ザルの中に残ったクリームの方を包む。
「リエーフ、これ、ぎゅってして。こんな感じ」
「えぇ? こう?」
言いながら日向が茶巾絞りでも作るように、まとめたクリームを中央へと押し絞る仕草をした。サラシを手渡された灰羽の方は、日向の手元を見様見真似で再現する。ぐぐ…と力が入って圧縮するようにまとめられていくクリーム、サラシから水気がじわりと滲み出す。もう出る気配が無くなったタイミングを見計らって、日向が「開いてみ」とリエーフを見上げた。
「え、…わ、えーっ! マジか! すげぇなにこれ超バター!!」
「だべ?」
リエーフの開いたサラシから顔を覗かせたクリームだったもの、は、もうすっかりと、バターの表情をしていた。ほんのり黄色みが在って、ホットケーキの上でよく目にするような、少しとろけそうな角の丸いバター。バターだ。
「すっげぇ!」
「ふふ。んじゃそれ、こっちに入れて」
日向はボウルにバターを放り込ませ、用意していた湯せんで少しずつ柔らかくしながらバターを混ぜ始める。リエーフは、「これ溶かしちゃ駄目なの?」と呟きながら、興味津々といった様子で手元を覗き込んできた。だーめ、と柔らかく告げた日向が、脇に在った砂糖たちを顎で指し示す。
「リエーフ、それ順番に入れて」
「オッケイ!」
日向に言われたとおりに、リエーフが粉類へと手を伸ばして投入。その間も混ぜ続ける日向の手は止まらず、ボウルの中身はじわじわと色が変化していった。「次それね」と日向の指示のもと、他の材料もボウルへと投入されていく。やがて、ボウルの中身はクッキーのタネと言わんばかりの塊になってきた。泡だて器からゴムベラへと持ち替えていた日向が、こんなもんかな、と作業を止める。材料のせいなのか、灰羽がイメージしていたクッキーの色よりも少し茶色い。
「袋?」
すげぇ固まった、と灰羽が呟いている隣で、日向は袋の中にクッキーの生地を放り込んでいく。が、ただの袋ではない。
「まぁ見てて」
そう言った日向は、テーブルの上にビッと引き出して紙を敷いた。オーブン用の少し表面がつるりとしたその紙の上に袋をかざして、ぎゅう、絞り出す。
「おぉ?!」
「やる?」
「やる!」
太さを一定にする意味もあるのだろう。袋の先端、銀の口金から絞り出されていく生地で、紙の上に真っ直ぐと線を引いていく。一本を作ったところで悪戯っぽく視線を寄越した日向に応えるように、灰羽は二つ返事で両手を出して受け取った。日向がやったものの下側、空いたスペースに狙いを定める。
「わっ、あ、お?!」
「握り過ぎ、握り過ぎ」
「おっ、あ、おぉ!」
「そうそう」
初めてやるためか、力加減がうまくいかない。妙に太い部分やわだかまった部分なども作り出しつつ、なんとか一本引き終わった。次いで二本目、三本目を引く。日向が手助けするように不格好になった部分を修正して、合計四本の棒状の生地を作り出した。
「焼くの?」
「気が早い。リエーフどいてー」
「えっ、冷蔵庫?」
「そ。タネを寝かせるんだよ」
「たねをねかせる…?!」
日向の発言がよほどピンとこなかったのか、灰羽はきょとんとした顔でなぞるように言葉を繰り返す。日向は小さく笑いながら冷蔵庫の扉をかぱり、あらかじめ確保していたスペースに生地を静かに置いて、ぱたんと閉じた。一連の動作を終えて振り返ると、興味津々で日向を見詰める灰羽とぱちり目が合う。
「冷やすってこと? なんで? どれくらい?」
「三十分くらいかなー。サクサクするんだよ」
「へぇ! すごいな、おもしれぇ!」
答えた言葉に、灰羽の顔がわくわくを隠し切れずに輝いた。幼子のようなその表情に、日向が笑って「夏もそういう顔する!」。 「なつ、って、妹だっけ?」
「そうそう。あ、コーヒーとジュースあるよ」
「ジュース! なつちゃんもお菓子すきなの?」
「うん! つっても、あんま食べられないんだけど」
「そうなの?」
言いながら、日向は再び冷蔵庫を開けて手際良くジュースを準備した。コップの七分目まで注いで、ひとつをキッチンの壁にもたれかかった灰羽に手渡す。自分の方はそのままカウンターに置いて、シンクに突っ込んだままの調理器具の片付けを始めた。量は多くない。コップを置こうとした灰羽を緩く制して、「夏さぁ」と話を続けた。
「色々アレルギーとか在って、食べられるお菓子、少ないんだよね」
「へぇ」
「で、不安になりながら食べさせるくらいなら作ろうと思って、それが最初」
「すげぇな!」
言って日向は、洗った調理器具の水を切る。急ぐものでもなし、あとは水切りカゴに暫く置いてしまえば良いだろう。軽く手を洗って、「そんなことないよ」と笑った。

 「おぉ…!」
あの後、冷えたクッキーのタネを取り出して、適当な大きさに切り分けた。それから温めたオーブンで15分ほど、現在、二人の前には焼きたてのバタークッキーが並んでいる。
「すっげぇな! ほんとに出来た! すげぇ!」
「すげぇすげぇ言い過ぎだから」
灰羽の歓声に日向が照れ臭そうに笑う。すげぇもんはすげぇもん! という小学生のような返しをしながら、灰羽がまだ熱いせいもあってか、つんつんと恐る恐るひとつをつついた。
「食べて良い?!」
「良いよ。まぁほんとは冷ましてからの方が良いんだけど」
「大丈夫! いただきます!」
大丈夫ってなんだよ、なんてツッコミも流して灰羽はつついたひとつを手に取った。あつ、とか、おぉ、とか、声を上げながら、ぽいと口に放り込む。
「ふお!」
ぱくり。灰羽の瞳がきらと輝く。ざくざくと咀嚼する音と共に打ち震えるように身震いして、口元はむずむずとわなないている。目配せするように「ど?」と尋ねた日向の両肩を、ガッと勢いよく掴んだ。
「っ…めちゃめちゃ美味い!」
「そんなに? …ありがと」
灰羽の大げさなくらいの言葉に、日向がはにかむ。あとは冷まそうと告げる声に頷きながら、灰羽は尚も「すっげぇ…」と噛みしめるように言い募った。
「リエーフ、大げさ」
「いやだって、マジで、なんか、ほんとに作れるんだなって思うし、クッキーって、こんな美味しいんだなって、びっくりする。初めてだ」
「そりゃ作れるよ。てか美味しいクッキーなんて、他にもいーっぱいあるからな?」
くすくすと呆れたような声を作るけれど、しかし滲む嬉しさは隠せない。そして灰羽がとどめのようにきらきらと「じゃあ美味しいじゃなくて、優しいにする!」。
「え?」
「こんっな優しいクッキー、食べたの初めて! すごいな、日向!」
やさしいの、どっちだよ。そうやって眉を下げた日向に、灰羽は「あ~っ、もう一個だけ! な!」。
「あんま食べると、すぐ無くなっちゃうぞ」
「そしたらまた二人で作ろ!」
にこり楽しそうに笑んだ灰羽の口に、「しょうがないな」、日向がひとつつまんだクッキーを放り込んだ。