其の日は大雪で、五十八年振りの大雪で、此の地方には珍しい大雪で、観測史上五番目の大雪だった。

 歴史なんて知らない僕らは其れよりも学生の本分を全うしなければならないらしくて、歩いた。

 歩いた、学校に向かって。






スカイライン






 「さっみぃーーー・・・ねっみぃーーー・・・」
自分は、教室で声を上げる。
こんこんと降り続いた雪は昼頃には上がり、太陽は既に運動場を、無残な茶へと変えていた。
個人的には真っ白の方が、汚いものも何もかも全て見ないで済むのに、
なんて思っていたけれど、自然の摂理に逆らえる道理が無い。
そして其のような状況で在ろうと、寒いものは寒い。寒い。寒い。
「今日、俺、寒いしか言ってねぇ気がする」
やたら口の悪い自分、苦笑する前の席に座る少女。
マフラーを巻きながら「麗華さん、寒がり?」と訊ねる隣の席の少女。
其れは普段と何ら変わる事の無い下校直前で在って、
ただ一点除かれるのは、やはり常より寒いという事実だけ。
尤も全ては、主観に因っていて、確実な事なんて何も無いけれど。
 「あ」
「どうしたの?」
窓の外、角に位置する自分達の教室から見える、剥き出し吹き曝しの渡り廊下。
何となく見つめていたら、長髪を少し風に乱されながら、
けれどそんな事は意に介さない風で颯爽と歩いていく青年が居た。
そう彼は颯爽と、という形容が良く似合うと思う。同じクラスの、永村龍也。
「やっぱ彼は、早ぇなーーー。流石、自由尽。てゆかさっきまで寝てたのになーーー」
自分が呟けば、呼応するように「あぁ龍也さん? うん、早いよねー」と前の席の少女。
因みに平多、という。
 「あぁ僕も帰るーーー。頗るさみぃ。そしてねみぃ」
寒いと眠いを繰り返し、横の少女に「出た、『頗る』! 流石、麗華さんて感じ」と言われ、
取り敢えず「平多、帰ろうぜーーー」と誘う。
普段は自転車だが今日は徒歩で帰ると言う平多は、
「うん、帰るー」と二つ返事で頷いて、教室の出口へと向かう。
横の少女、安西は「じゃあね、あいのー、麗華さん」と手を振った。
其れに自分は小さく頷いて「おうよ」、平多の方は「ばいばい、みなみー」、
これもやはり、別段変わった事ではない。
他にも数人に挨拶され、其の度に先のようなやり取りを繰り返し、
そして自分達は彼を見送った渡り廊下を歩く。
ふと、気付く。
「あれ、御川くんじゃない?」
「え? お? ん?」
灰色と言うよりは青に近いマフラーを首に、
中には着込んでいるのだろうけれど後姿は学ランのみで少し寒そう、な彼。
成績は常に学年上位、一般的評価としては結構面白くて頭の良い副室長、
個人的評価としては胡散臭くて似非臭い笑顔が素敵、な彼。
彼、御川優幸。
「ほら、御川くんだってば」
「あ? あぁ、ん? あーーー、あぁうん、ん? あぁ! あ」
やっと平多が合点がいったのは、渡り廊下で隣の校舎まで渡って、彼が左に曲がった時だった。
左に曲がって直ぐの階段を一階分降りると、自分達の学年の下駄箱が在る、通称土間に行き当たる。
 「君、反応遅いよー」
「あれで判る麗華さんが凄いんだよーーー」
「そうか? あれなら判るだろォ? ま、僕は彼への愛が溢れてるからね」
「えぇ、愛ですかー」
そうして此方も渡り廊下を渡りきった。左折、階段の登場。
「あ、ねぇ。そういえば、長ランは何時買えるの?」
「さぁ、取り敢えずオークションだから、まぁ先方次第かな」
「えへへ、麗華さんが長ラン着るの楽しみーーー」
「はは、多分格好良いよ?」
そんな中身の無い会話をしながら、下駄箱に近付く、自分の靴を履き替える、
「あ」と、言ったのはどちらが先だったか。
 「御川くんだ」
先程の、彼。
ちょうど靴を履き替えんという所らしく、
片手に運動靴、幅広い世代に人気なカラーバリエーション豊富のスニーカー、を持って、立っていた。
此方に気付いて「あぁ」というように笑って、其の笑顔がまたちょっと胡散臭いよなーと自分は喜々として思った。
そんな事は微塵も考えていない平多は靴に目をやって、
「わぉ、水が滴ってるじゃないですか!」
そう言う。確かに彼が斜めに持った靴からは、重力に従ってぽたりぽたりと未だ雪解け水が滴っていた。
靴自体の質感も、何となく、湿った感じのする黒っぽい紺色だ。
ああ大雪だからなぁと自分がしみじみ思っていると、彼が、口を開いた。
「ね、困るよね。これさ」
そしてちょっと自分達に見易いようにか指し示すように靴を持ち上げて、
「元々はもっと空みたいな青だったんだよ」
と、彼。「えぇっ! 随分ぐっしょりじゃん!」と、平多。
そして自分が「物凄い黒っぽい紺に―――」「なのにさ」

 「まるで深海みたいな色になっちゃったよ」

 彼が、また、少し嘘臭いような綺麗な笑みを見せた。
「はは、大変だねー」
「ね、絶対湿ってるだろうし、履きたくないなー」
「言えてるー。ウチのもそうだろうなー」
一頻り会話を流しながら、其々靴を履き替える。
自分は黒の運動靴を、平多はローファーを、彼は深海スニーカーを。
そして先に履き終わった彼は、「じゃあね」としっかり発音して、しっかり笑って、土間の扉を開いて消えた。
開いて消えた、余韻に浸るようにぼんやりした自分に、平多の「行こ」の声が一歩を促す。
あぁ、凄い、と思う。
其の作られた、「にやり」とか「にこり」とか「ふっ」とか「にっ」とかでない、
「にっこり」とした笑顔もそうだけれど。
其のしっかりした一音一音はっきり言うような、とても判りやすい、
まるで手本のような発音もそうだけれど。
でもそうではなくて、其れ以上に、
あの漠然とした実は、実際にはそんなもの無いような、抽象的で頗る広義な、日本語が。
あぁ、凄い、と思った。
 「麗華さん、行こーーー。あ、傘!」
「おう。忘れんなよー、傘。次が困っぞ」

 ―――空の青が深海にと言った彼に、僕は黒みたいな紺にと言った。

 深海スカイライン。
彼の運動靴は、乾かないうちは深く、そして乾けば高く、何処までもゆけるのだろう。