朝。始業時刻まで、後十分程度。
集まりの悪い此のクラスも、
其れでもぱらぱらと人間が集まり始め、ゆっくりと教室に音が増えてゆく。
あと数分で、きっと完全なざわつきに変わるのだろう。
そんな頃に、自分は珍しくも無い、教室の扉の開く音を聞いた。
「あ、御川くんだ」
視線を投げて、小さく、呟く。






自動車ルー






 御川、と自分が認識した青年は、数人の少女に挨拶して自分の席に向かった。
どさりと机の上に鞄を置いて、教科書を幾つか机の中に仕舞い、
がたりと椅子を引いて、身体を横に向けて座る。
其れから常のように、彼は鞄から新聞を取り出した。
家で取っているのだろう、地元紙の朝刊。
ばさり、ささやかな音を立てながら、順番に眼を通していく。
真剣なようで、でもパフォーマンスのようで。
彼のそういう行動も、考察対象として個人的に、飽きない。
 「あの・・・御川くん、おはよう」
言った。自分の席、机上に座る自分。
其処から数えて二つ右隣の席の、前の前に彼。
其の微妙な位置関係に少し困りながら、けれど言った。
「ん? あ、麗華さん。うん、おはよう」
ドギマギ、と。
一瞬だけ少したじろいたような表情を見せてから、美しい笑みに摩り替えて彼は答えた。
あぁ、此の、胡散臭いような彼の笑みが好きなのだ、と自分は思う。
「にこり」とか「にやり」とか「ふっ」とか「にっ」とかではなくて、
「にっこり」という作られたような笑顔。
そういえば、毎回そう思っている気もするなーーー。
そんな事を考えながら、照れるように苦笑するように彼を視界に映して、
ふと、新聞の内容に眼を留めた。
其処に在るのは、写真。開かれた社会面に、大きく写真。

 「・・・自動車ブルー・・・」

 「ん?」
思わず自分が紡いだ言葉に反応して、彼は不思議そうな表情を見せる。
其の様子に、少し躊躇いはしたけれど、自分は座っていた机から降りて、彼の傍へ歩み寄った。
始業時刻まで、後五分程度。未だ埋まっていない、彼の後ろの席、永村龍也の席、に座る。
其れから、「其の裏の・・・」と彼の新聞を示した。合わせて彼が、新聞を裏返す。
「これ?」
「うん、此の」
と言って、自分は掲載されている写真数枚の中の一つを指差した。
眼を向ければ、写真の中には林立したビル群。
中国かアメリカか、インドか日本か、
何処か大きめの都市の、空を突き刺すようなビルが写っていた。
下方に道路等は写っておらず、兎に角ビルの高い事が強調されている。
「空」
先程の言葉にこう単語を繋いで、彼をちらりと見てみた。
彼の方は「此の空?」と繰り返していて、其の様子に自分は頷き、言葉を続ける。
「うん、其れが、自動車ブルー、だなと思って」
「『自動車ブルー』って?」
怪訝そうな表情、流石に少し恥ずかしくなってしまう。
ちょっとだけ濁すように、彼に簡単に説明を試みる。
「あーーー・・・造語、なんだけどね。こう・・・此の空さ、そんな曇ってる感じじゃないのに、
灰色から白にグラデーションして、どんよりしてるからさ。何か公害っぽくて・・・
まぁ灰色では在るけれど、空だし、『自動車ブルー』だな、と、思ったのですよ」
「あぁ、成程」
一頻り話をしてみれば、彼は感心したように首を縦に振った。
途中途中で、こっそり彼の表情を伺ったりもしたけれど、
其の度に彼は「うん」と言わんばかりに頷いてくれていた。
そして自分は頷く彼を見て、「あぁこれ彼の本心かな何か胡散臭いな好きだなーーー」。
尤も其れは、一般的な感想では、決して無いかも知れないけれど。
 其処まで考えて、ふと、隣の写真にも目が行った。
「・・・『プルシャンブルー』って知ってます?」
「ん?」
だから自分は、再び唐突に口を開いてしまった。
案の定、彼はまた不可思議そうに、喉で返事をした。
彼に心中、あぁ珍妙な話をしだして御免なさい・・・! なんて思いながら、其れでも続ける。
プルシャンブルーと、言うのはね。
「どんな色も呑み込んでしまう青、らしいですよ。えぇと、何て言うのかな、全て喰う青? みたいな。
で、此の写真の青が」
其処まで言って、先程目が行った、ビルの隣の青過ぎるような海を示す。
真っ青、美しくて、作り物のような彼の笑顔のような、海。自分は、言葉を続ける。
「プルシャンブルーみたいだな、と」
「へぇ、『プルシャンブルー』かーーー」
感心したような声、一音一音はっきりと発音するせいか、酷く演技がかった感じもするけれど。
そんな彼に控えめに「うん、まぁ、主観だけれど・・・」と付け足すが、彼はあの笑顔を崩さない侭。
「でこっちが、『自動車ブルー』なんだね」
「あはは、そう。そっちは自動車ブルーなの」
綺麗なキレイな、笑み。
 会話は得る所も無い、中身も無いものだった。
実際、此の青の話が彼の人生に役に立つかどうかと言えば、恐らく役に立つ事は無いだろう。
けれど彼は、「麗華さんて面白いよね」と笑ってくれた。
其の言葉が御世辞かどうかは図りかねるが、取り敢えずは、楽しそうに。

 「おぉ、彼が来てしまうやも。済まないね、こんな話で君の邪魔をして」
彼の表情を眺め続けているのも不味いような気がして顔を上げる。
其の視線の先に、不意に時計。時刻は、始業時刻一分前を示していて、自分は立ち上がった。
『彼』、とは、目の前に居るキレイな彼ではなくて、本来の此の席の主、綺麗な彼。
尤も此の時間に永村氏が居ないという事は、
本日の時間割を鑑みて考えても、自主休講と決め込んだのだろう。
「ううん楽しかったよ。流石、麗華さんって感じだったしね」
立つ自分を止めるわけでもなく、彼は自分を見上げてまた笑う。
あぁ良いなぁ嘘臭いなぁ、思いながら、其の笑顔に「そう? ありがとう」。
 其れから彼の席を後にして、再び自分の机に座った。
前に座る少女、平多の背を突付いて、「ねー、御川くんと話しちゃった」と話しかける。
自分はそうしてまた、自分の世界の扉を、他人に少しだけ開けてゆくのだ。



 ちらりと見遣ると彼は、読みかけになった新聞をもう一度広げていた。
すぅと笑みが消えて活字を追い始めて、まるで無表情になった、ように、見えて。

 ――――――嗚呼。胡散臭くて似非臭くて。作り込まれたような、彼若しくは、青。