「雨が降らない」

 あの日は、台風が近づいていた。

 その日は、雲ひとつ無い快晴だった。






  が  降  ら    い






 僕の好きなもの。
漫画も含めての本と、クラシックも含めての音楽と、それから先輩も含めての、数人の友達。
其れが僕の好きな全てで、在る意味において僕自身の全てでも在った。

 そして、無くなった。

 唐突に失ったわけでもなく、其れはとうに決められていた事だったのだけれど、
余りにも突然の出来事のように思えた。
そう思えたのはきっと、僕が理解能力が無い馬鹿だというわけじゃなくて、
どちらかと言うと認めたく無いと駄々を捏ねるガキなのだという事なのだろう。
認めたくなくても溢れる数多の現実から、眼を離し逸らしただけなのだ。
例えばテストが面倒臭くて、勉強もせずに本を読み耽ったりするのと同じように。
僕は自分を進めるのが面倒臭くて、記憶に縋ろうとしたのだろう。
褒められた事ではない。けれど、そうまでして縋りたかったものだったのかも、しれない。






  が  降  ら    い






 「マミヤくん、走るよ!」
「え、ちょっ、待って下さいよ!」
あの日、一目見たくて、彼を追いかけていた。

別にアイドルでも俳優でも芸人でも何でもない一般人の彼を。
少し不登校気味の彼は、でも自分には綺麗に見えて、其の話を先輩にしたら、こうなった。
偶々今日は学校に来ていて、そして当然のようにさっさと帰ってゆく彼を、
何故だか追うように走る事に、なっていた。
「自分じゃ判んないんだから。マミヤくん、おいでおいで!」
「ちょっ・・・先に居ます?! だとしたら、かなり早いっ・・・!」
ばしゃばしゃと。足元の水が跳ね上がる。水溜りも何も厭っている場合では無い。
空から降る水さえも、構っていられなかった。
僕らを何かが、急かしていた。何か、判らない何かが。
別に彼を追いかけたって、何も起こらない。
僕は彼と然して仲が良いわけでもなく、或いは喋る事すら出来ないかもしれない。
其れでも、何故か。
 あの日、ちょうど台風が近づいてきていて、学校から早く帰るよう通達された。
暴風警報で休校になるかもしれなくて、次の日のテストが無駄に延期されて。
しかも其のテスト、僕ら二年生は暗記科目の筈だったから、微妙に不平を漏らしながら帰っていた。
 そうだから、其の衝動も在ったのかもしれない。けれど或いは、全然無かったかもしれない。
僕たちは、ただ、突き動かされていたんだ。
「マミヤくん!」
「重っ・・・ちょ、待って下さっ・・・!」
必死で走った。
後ろから、もう一人僕らの友達が悠然と傘を差して歩いていたけれど、
僕は先輩を追いかけて、先輩は知らない彼を追いかけて。
掃除当番だった筈なのに、彼は帰ったらしかった。
下駄箱で会える予定だったのに、何故だか帰ったらしかった。
何も判らない彼なのに、どうしても唯、見つけたかった。
意味なんて判らなかったけれど、そんなもの考えもしなかったけれど、
けれど、もしかしたら、其処にしか意味は無かったのかもしれない。
――――――土砂降りに近い雨になった中、視線と雫を一身に受けて、走ってた。



 「っは・・・、マミヤくん、どうしようか」
「ですねー・・・・・・・・・」
取り敢えず流石に雨宿りをと、先を走っていた先輩が止まったから、やっと追いついた僕も止まった。
ついさっきまで、傘を差さない人間も多かったのに、今では、少数派になってしまっていた。
知らないカラオケ店の、駐車場代わりの軒先に、屋根を見つけて。
タオルより幾分か心許無いハンカチで、取り敢えず水滴る髪だけ拭いた。
先輩も僕も、制服のカッターは拭く云々というレベルじゃなかった。濡れ過ぎている。
 「・・・あそこ、目指す駅だよね」
「あぁ・・・そうですね。あそこですね」
すいと、細い指と腕を上げて、先輩が地下へ続く階段を指し示した。
地下鉄の駅特有のマーク、駅名表示、吸い込まれてゆく人間。下校時間故に、制服の人間が多い。
 「居ると思うかい?」
唐突に、はっきりと質問された。其れは単純なものだったけれど、思わず「え?」と聞き返す。
先輩は酷く簡潔に、
「彼」
とだけ付け足した。僕は少し考える素振りを見せてから、でもずっと持っていた思考を零す。
「・・・・・・・・・可能性、低いと思います」
「だよねぇ」
やはり、というか何と言うか、先輩もまた、あっさりと其れを認めた。
其の当たり前を見て見ぬ振りして走った事に、妙に沈黙してしまう。
 どうしようか、ともう一度先輩が呟いた時、後ろから声がした。
「先輩、マミヤ。随分面白い光景をどうも。其れで、見つかった?」
多少の皮肉、純粋な疑問、傘を差して悠然と僕らの友人、ヤマネ。
同じ軒先に入って、パチンと傘を閉じた。
「・・・・・・そりゃ見つからなかったさ」
「予想済みだけどね、そんなん」
少し脹れたような声音で返す僕と、まぁ仕方ないねと悟ったような先輩。
其の対比にか、また少し笑ってから、ヤマネは「面白かったけどね」と、もう一度言った。
 「で、どうします? 駅にでも行」
「マミヤくん? 燃料切れのロボットじゃないんだから。まぁ良いけど。そうだね、駅に」
「先輩違うんです、あれ!」
「え?」
「あ」
「じゃあ―――」
雨の中、傘の群れ、紺の花、其れは、其れこそが。

 「彼か」

 「はい・・・」

 後ろから歩いてきたヤマネよりも、もっと悠々と、彼は。
傘を咲かせて、本当に教科書も弁当も詰めているのか不思議に思うくらいペタンコの鞄を肩に掛けて。
少し下向き加減の視線のまま、駅に歩いていって、
歩いていって、
歩いていって、
「あ」
消えた。

 「あ・・・はは・・・あははははっ・・・!」
「ふふっ・・・先輩、どうしますーーー? 綺麗にすかされちゃいましたねー」
自然、笑えてきた。
びしょ濡れの惨状も、降り止まぬ空の雫も、咲き乱れる傘の群れも、何もかも滑稽に思えた。
「無駄な事やってるよね、二人とも。全く・・・」
「えー、そう言うなよ、ヤマネー」
「そうそうヤマネくん、人生に無駄も必要だよ」
呆れたように溜息を吐くヤマネに、僕ら馬鹿みたいに笑い合った。
青空を知らない空は、ただ雲で青く染まっていた。
 「帰るか、マミヤくん」
「そうですねー」
カラオケ屋の軒先から、一歩外に出て、先輩はくるり振り返る。
まるで少女のような仕草に笑いながら、僕はひとつ頷いて、一緒に出てゆこうとする。
傘を開きながらヤマネが、慌てて僕の腕を引いた。
「マミヤ、傘持ってないじゃん!」
「良いよ」
手ぶらの僕は、くすくすと笑って、何も考えずに雫を浴びた。
散々濡れて、今更何を言うのか。そんな調子で考えていたら、先輩も傘を閉じていたんだ。
それから
「帰るか!」
「了解デーーース」
傘を差して呆れ返ったヤマネを後ろに、先輩を先頭に、僕は真ん中をフラフラと、
駅までの道をゆっくり歩いていった。
 あの日は、雨が降っていた。
土砂降りの雨、台風の直前。妙な静けさを従えて、雨雲が通り過ぎていったんだ。
そしてきっと一緒に、何もかも連れ去りながら、洗い流していったんだ。






 「青・・・・・」
その日は、雲ひとつ無い快晴で。
台風シーズンなんて随分と過ぎた、三月半ばのまだ少し肌寒い頃だった。
「あお・・・・・・」
退屈で空虚な日々から解放された学校帰り、電車を降りて、地上に立って。
何となく呼ばれたように見上げた空は、
まるで抜けるような青で、抜けてゆくような青で、痛いくらいの青だった。
雨が、降る筈も無かった。
 随分経っていたんだ。慣れたつもりでいたんだ。けれど思ったよりもずっと、時間は残酷だった。
何もかも持っていった雨、雨を抜けさせてしまった空、もし此の地球が本当に循環しているというのなら。

 「雨が降らない・・・」

 ただ楽しかった。

 「雨が降らない・・・」

 先輩が居る空間が。

 「雨が降らない・・・」

 三人笑えた、空間が。

 「雨が降らない・・・」

 僕のカラダから流れた雨だけが、地に堕ちて滲んでいった。



 嗚呼・・・・・・・・・

 雨が、降らない―――――――――。