あたしは唯、あのひとが好きだった。

 其れ以上でも其れ以下でも無くて、唯感じていた、好き。

 それだけ。





―――――― ウ サ ボ






 決して低過ぎはしない低音で、あたしの名字を呼ぶ声が好き。

 「コウヅキくん」

 誰にも優しく対応する、八方美人とは少し違う似非臭さが好き。

 「まぁね。自分、長男ですから」

 そのくせ実は、誰より辛辣な感じのする所も、好き。

 「あぁ あの人?顔 四角いよね。切れてない食ぱんまんみたい」

 嗚呼そう言うなれば、まるで指標のような、まるで理想の、ような。






 「あ、先輩」
「おぉ、コウヅキくん」
廊下で擦れ違って、あたしは思わず声を上げた。
七月に入って間も無い日で、夏日になるでしょう、なんて予報されていて、
少しでも涼を求めようと廊下に出ている人間も多くて。
極小さな声で、気付かれない筈だったのに、意外にも耳は敏く、あのひとはあたしに気付いた。
あたしは少し嬉しいような、でも気付かれてしまって困ったような、表情をして。
「移動教室ですか?」
「その帰り」
「あぁ」
会話は短くて、其処に込められた情報は少ない。
けれど、それで充分足りると思うのは、あたしもあのひともで。
「何、君は」
「あぁ自分は今から図書室ですー」
「図書室!涼しいね。寝るには持って来いじゃないか」
「ですね。でも自分、何処でも寝ちゃいますもん」
「自分もだね。寝てしまえば関係ないよね、あれは」
「ですよねー」
十分しかない事は判っていても、確実に教室から遠い其処で、確実に図書室から遠い其処で、話をする。
あのひとが何を思ってくれているのかは判らないけれど、あたしは、楽しい。
「先輩、次は?」
「ん?体育」
「え、そーれは・・・時間大丈夫なんですか?」
「どうせ自習だから」
「うわ優雅じゃないですかー」
「図書室で寝る方が優雅でしょ」
「あぁ、それもそうですね」
大した意味を成さない会話だ。在っても無くても、何も変わることは無い。
でもあのひとの使う“言葉”が、あたしは好きだから。
 『キーン コーン カーン コーーーン』
「あ」
「チャイムじゃないか」
顔を見合わせて、少し、笑った。



 「うわ、暑くないですかーーー?」
「まぁ今日は夏日だそうだからね」
「まだ三限目なのになー」
「もう仕方ないんじゃない?」
「そっすかねーーー」
非常階段に、居た。
そう勿論さっきのチャイムは三限目の始まりを告げるもので、
曲がりなりにも進学校を名乗る此の学校に集まる生徒は、
基本的に真面目腐った表情を顔に、授業を受けている。
あたしにとっては、退屈な研修旅行――つまりは修学旅行、の下調べを図書室で、という授業。
先輩にとっては、出張中の教師の御蔭でどうせ煩いだろう自習が決まった体育、という授業。
内容は違えど、重みは、同じようなものだ、と。
 「先輩、いつも こんなん やってるんすか?」
「ん?」
「サボタージュ」
「はは、サボタージュとは面白い言葉を使うね。ちょっとツボだよ」
「そうっすかー?で、御答えは」
「そんな多かないよ。自分、真面目っ子ですから」
「先輩が真面目っ子なら、自分もすっごい真面目だと思いますけど」
「あはは。じゃあ、自分ら そうなんじゃない?真面目にサボる生徒たち、だけど」
「あはははは!そういう『真面目っ子』ですか。不名誉なーーー」
非常階段は、風がもろに通り抜ける。野外に校舎から出っ張ったように造られているせいだ。
さらに、その一番上、もう直ぐ屋上と言う四階から登る階段に座っているのだから、より風が強くなる。
涼しくて、少し強すぎるくらいの風が身体を、撫で流してゆく。
 「自分は自習だから欠課つかないけど、コウヅキくんは つくんじゃない?」
「まぁ・・・つくでしょうね。良いんじゃないですか?最低限生活がスルー出来れば」
スルー出来る、つまり、流れてゆけば。『パス出来る』とは少し違うけれど、大差は無い。
それよりも、もう一年も一緒にいる事は出来ない先輩の、言葉を吸収する方が、あたしにはよっぽど重要だ。
 「何か飲むもの持ってこれば良かったねぇ」
「えぇ、そんな本格的にサボるんですかー?」
「何事も頑張るべきだよ、コウヅキくん」
「えー、何事も適当ですよ」
「えー、良い意味の?」
「あはは。勿論、良い意味の、です」
言葉は多く無いけれど、何となく伝わっているのだ、と、思う。
『適当』という単語の良い意味を、一瞬で引き出し選択するような言語センス。
其れが然も当然のように、此処でサボって笑う、度胸にも似た、気の持ち方。
先輩の存在が、好き。

 「好きです」

 「んーーー・・・知ってるよ」

 此の、空気感が、最高に、良くて。






 屋上に続く非常階段、一番上、一年も無い場所を実感したくて。

 「今日は?」
「行きますよー。佐々先輩もいらっしゃるんですよねー?」
「じゃあ、言ってたアルバム持ってこうじゃないか」
「あ、ありがとうございますー」






 いなくなる前に、彼らに逢えて、良かったと思うのです。