あたしはいらない子なのかなって。
思っても悲しくなくなったのは、いったい、いつから。
世界流雨 セ カ イ リ ュ ウ ウ
「ゆーうーちゃん!」
「・・・・・・メグミ」
ゆうちゃんはいつも、少し間を空けてから、あたしの名前を呼ぶ。
なぜかは知らないけれど、ゆっくりと視線を移動させてあたしを見て、
それから名前を呼ぶから時間がかかるんだろう、と勝手に思っている。
あたしは、ゆうちゃんのそういうところも好き。とりあえず自分を基準にしているところ。
「どうしたの。機嫌良いみたいだけど」
「そうなのー。判る、判る?」
いつも持ち歩いているぬいぐるみの腕をぶんぶん振り回しながら、
あたしはゆうちゃんに答える。
ゆうちゃんは小さくため息をついて、「そりゃ嫌でもね」と言っていた。
ゆうちゃんは、実は一言多いと思う。
「今日ねー、母が早く帰ってくるって言ってたの! 機嫌、いーみたいで!」
「そう。それは良かったね。なら、君も早く帰りなさい」
「えへへー。でもね、ちゃんと授業と部活はやってかなきゃ、でしょーーー。
ゆうちゃんいつも言ってるじゃん、『やることやってからにし給え』て!」
あ、少し巧くできたな、と自分でも思うゆうちゃんのモノマネ。
ちょっと上から斜めに見下ろすような感じで、少し首を傾けて、
相手を見据えて古めかしく言う、それがゆうちゃん。
あたしが随分楽しそうにしているからか、
ゆうちゃんも少し柔らかい表情になって言った。
読んでいた本にしおりを挟んで、しっかりと閉じてこっちを向いて
「でもメグミ。部活は毎日あっても、君の母親は毎日いないんでしょう」
「え・・・うん、でも、でもさ! 今日の部活は、一度しかないでしょ。
今日は今日しかないもん」
「まぁ、そう考えるなら別に良いけれど。判断するのも体験するのも君だしね」
あたしがちょっと頑張って言うと、ゆうちゃんはすぐに退いてくれる。
面倒なだけ、と本人は言うけれど、
他人を尊重できるっていうのは、ゆうちゃんの凄さの一つだと思ってる。
「雨、止まないかな?」
「多分ね。天気予報では、明日も雨だって言ってたし」
「そっか・・・」
明日。明日は、あたしの誕生日。
だからきっと母も帰ってきてくれる気になったんだろう。
もともとそんなこと望んでなかったから、余計に嬉しくて、
あたしは朝からゴキゲンだったのだ。
物心ついてから、一度だって母はあたしを抱き締めなかった。
あたしは父の連れ子ってやつで、母の愛した父は莫大な遺産を残して死んでしまって、
血の繋がらないあたしたちが遺された。
女二人で暮らす分には有り余るほどの遺産と保険金は、母が少しずつ浪費している。
ホステスをやっている、母が。
そんな中で、早く帰ってきてくれるという。
どういう風の吹き回しか知らないけれど、誕生日でしょ、と言っていた。
嬉しくて嬉しくて仕方なくて、凄く凄く涙が出てきて、
単純に単純に全部言葉を信じて、笑って泣いた。
母が少しだけ、にこりでなくてにやりと笑った気がしたのは・・・見ないフリをした。
せめてひとときの幸せに、唯浸りたかっただけだったのに。
「ただいまーーー!!」
返事は、無い。当たり前だ。
今あたしは、携帯電話で一度家に電話して、誰も居ないことを確認して家に帰ってきた。
だって母がもしもオトコと居たら? あたしは殴られて出てけって言われてしまう。
今日は、今日だけはそんな惨めな思いしたくなかったから。
「まだかな。早く帰ってこないかな」
“わくわく”。もう何年も、こんな感覚忘れていた。
遠足前の子供みたいに、ドキドキして楽しみで、わくわくして。
その後に何があるかは判らなかったけれど、
とにかく『待っている』という、この時間が嬉しくて素敵過ぎて―――
帰ってきた母を、あたしは、笑顔で迎えられなかったんだ。
「あら何よ、アンタ・・・もう居たの」
「この子は誰? マキコさん」
ねぇまるで、突き落とされたような裏切りに見えたんだ。
「えっ・・・と・・・?」
「知り合いの子よ。両親が死んだから、私が少し世話を頼まれてたの。
御免ねマサヒトくん、少しこの子に話があるから・・・良い?」
特有の、仕事とプライベートの境のような媚びるような目。
肩の大きく開いた服は、まるで胸を強調するようで、
あたしは母の仕事を見た気がして嬉しかったのに。
『仕事』なら『仕方ない』と、信じて嬉しかったのに。
「メグミ、出てってくれる? 月に十万、仕送りしてあげるから、他に住んで」
「――――――え?」
話が急展開過ぎて、何が何だか飲み込めない。
だってあたしは、誕生日を祝ってもらえるのかなとか、
それよりも たくさんお話しようとか、そんなことばっかりで。
放心したあたしを気にすることも無く、言葉はあたしに降りかかる。
「私はね、此処でマサヒトくんと住むの。
勿論、結婚を前提にしてくれるって、彼言ったわ。だからね、アンタが邪魔なのよ、メグミ」
知ってたよ。アナタにあたしへの愛情がないことなんて知ってたよ。だけど。
「それでね、此処、此の住所のところに部屋借りてきたから。
後は大家と仲良くやってよ」
だけどあたし、嫌われるようなことなんかしなかったでしょう、ずっと、ずっと。それとも。
「それから、良ーい?
引越しが終わったら、もう、この家には帰ってこないでね。私たちの新居なんだから」
あたしという、人間、存在、全て、要らなくてどうでもよくて、まるでそこらで拾った犬、だったの?
「・・・・・・・・・うん、判った、マキコさん」
物分りの良い、素敵な娘でしょう。
嗚呼、泣きそう。
「マキコさん、話・・・終わった?」
「あ、うん。大丈夫よ、マサヒトくん。さ、どうする? どの部屋が良ーい?」
「えー・・・俺は・・・で・・・」
「もーう・・・、っだぁ・・・しょー・・・」
扉を閉めた自分の部屋の向こうから、聞きたくも無い音が漏れてくる。
下らない下らない、どうせ客とホステスなんじゃないの。下らない下らない。
あたしの荷物なんて殆ど無い。
少しの服と、少しの貯金と、それから人より少し多いだけの写真。
もう良い、もう良いよ。何もかも、置いてってやる。
せいぜい困れば良いんだ、いつまで経っても片付かない部屋に。
嗚呼、外は、雨が酷い。嗚呼、外は、雨が止まない。嗚呼、外は、雨が・・・・・・・・・。
全部流れてしまえば、良いのに。
いまさら傘を差すなんて馬鹿らしく思えて、あたしは手ぶらで歩いていた。
二月の、場違いなほどに強い雨はとても冷たくて、
トレーナーとジーパンとスニーカーのあたしに凍えろと言ってるみたいだった。
それでもあたしは突き動かされて、とにかく歩いて歩いていた。
・・・ゆうちゃん。
本当は頼っちゃいけないのかもしれない。
本当は自分であの人に抵抗すべきなのかもしれない。
そんなことより甘んじて現実を受け入れて、そのマンションを探す方が良いのかもしれない。
でも、ゆうちゃん。
あたしみたいに弱っちい女子高生が抱えるには、重すぎて多すぎて仕方が無いの。
止まってくれない、まわり続ける世界なんて、もう広すぎて苦しくて仕方が無いの。
ゆうちゃん。
ゆうちゃん。
何も言わずにあたしを入れて。何も言わずにあたしに答えて。
ねぇゆうちゃん、選んでしまう、あたしをゆるして。ゆうちゃん、ゆうちゃん、あたし大嫌いなの。
大嫌いなの。大嫌いなの。ねぇゆうちゃん――――――
「世界・・・すき・・・?」
答えて笑ってゆうちゃん。
あたしと狂って、ゆうちゃん。
あたしはいらない子なのかなって。
思ってそして確信したのは、いったい、いつから。