彼女は、僕の家へ来て、言った。

 「ねぇゆうちゃん・・・世界・・・すき・・・?」



 運命が、動く瞬間。






      雨中の鳥






 「こんな雨の日に、どうしたの」
鉄のドアを開けたら、雨の音と共に彼女が立っているのが目に入った。
春に近くなる2月の終わりに似合わない雨。
其の中を傘も差さずに歩いてきたのか、ずぶ濡れだった。
 彼女は、顔を上げて言う。
一般よりも少し身長の高い彼女だったが、僕の方が高身長な為に彼女は上目遣いになった。
比較的可愛いと思う。整った顔立ち、と言うのだろうか。十人に五人は可愛いと言うだろう。
「ゆうちゃん・・・世界すき・・・?」
恐らく泣いているのだろう。雨と混じってよく判らないが、声が震えているから。
簡潔だが、あまり明瞭ではない問いに、僕は不思議そうな顔をしたのだと思う。
困ったような顔をして「ごめんね」と彼女は呟いた。
 「とにかく入って。寒いから」
僕は身体を斜めにして玄関に通り道を作り、彼女を中へと入れる。
一瞬、部屋が濡れるなぁとも思ったけれど、さして困らないか、と考え直す。
彼女はもう一度「ごめんね」と言いながら、家の中へ入っていく。
僕の家には何度も来た事があるからか、迷わず彼女はリビングへ消えた。
 「どうしたの」
「ありがとう・・・」
タオルを差し出すと、質問には答えられずに礼を言われた。
少し困るなぁと思いながら、僕は仕方ないのでソファに座る。
僕の家のリビングは広い方だ。
二人掛けの革張りのソファを置いて、背の低いリビングテーブルを置いて、
大画面と呼ばれるテレビを置いて、レコードまで聴けるオーディオセットを置いて、
観葉植物なんかも在るのだが、まだ余裕がある。
タオルと一緒に持ってきたコーヒーに口を付けながら、彼女の姿を見る。
・・・小さく見える。
 「それで」
「うん・・・ねぇ・・・ゆうちゃんは、世界すき?」
また、同じ質問を繰り返される。
どうやら僕は、此のよく判らない質問に答えるしかないらしい。
仕方が無いので暫し天を仰ぐように考えて、僕は答えを探す。
彼女は黙った儘、僕を見ていた。
 「そうだね、別にさして嫌いな理由も無いけれど、是と言って好きな理由も無いね。
どちらかと言えば、嫌いな方なんじゃない?」
曖昧な答えだと、我ながら思う。けれど彼女は其れに満足したのか、頷いた。
「じゃあ・・・あたしのことは・・・すき?」
上げていた顔をゆっくり下げて、遠慮がちに伏目がちに、彼女は訊いた。
僕は驚くしかなく・・・取り敢えず「何故」と短く問う。
今度の言葉は答えは、酷く簡単だった。

 「あたしとね、死んでほしいの」

 ・・・意外に人間は、肝の据わった生き物だと思う。
普段から「死ぬほどびびった」等と大袈裟に形容する癖は在るが、
実際に驚くべき事を聞いても、あまりそんな心地はしない。
それどころか僕が言ったのは「あぁそう」という言葉だけだった。
 縋るような瞳だと思った。
彼女の其れが訴えるものは多く、まぁ思い詰めているのだろうという事くらいは判る。
僕は・・・考えた。どうしようか、考えた。
「何で僕なの」
「一番好き」
「あぁ、そう」
簡潔で明確な理由。
他人に好かれている、というのは少なくとも世間的に見て悪い事ではないのだろう。
こんな状況でなければ。僕でなければ。・・・・・・・・・だからか。彼女が世界が好きかと問うた訳は。

 「良いよ。どうやって?」

 「何でも良い」

 嬉しそうに酷く嬉しそうに彼女は顔を綻ばせた。目尻を下げて、唇を吊り上げて、笑顔。笑顔笑顔。
頷いて良かったかもしれないな、と、思った。






 「じゃあ、行こうか」
「うん。・・・ゆうちゃん、本当に良いの?」
「今更。愚問でしょう」
「・・・うん」
手を繋いで、傘を差さずに歩いた。雨の中をゆっくりと歩いた。
此の世で最後の恵みを浴びて、
それは傍から見たら酷く滑稽だったろう。気が狂ったかと思われただろう。
でも、僕達は・・・僕は、正気。
 彼女のマンションに到着して、
最上階までエレベーターで上がっていく。高い。十五階建のマンションだ。
「また濡れちゃうね」
「それも今更。僕は構わないよ」
「あたしも」
二人で笑いながら、エレベーターから降りる。全く濡れていない。
冷たい風だけが通っていって、少し、寒いような気もした。
彼女が僕を誘うままに、非常階段へと向かう。
南京錠が掛けてはあったが、少し力を入れると、簡単に外れた。

 「雨・・・止んでないね」
「多分、今日は止まないよ。良いんじゃない?」
「そうだね。あたしもあんま気になんないや」
屋上は思うより少し、風が強かった。
雨は相変わらず降っていて、ある意味において、自殺日和だな、なんて思った。
「何処にする? あそこは?」
「何処? ・・・あぁ確か、あの下は植え込みだったね」
「え? んーと・・・あ、うん、そうそう。植え込みだよー。何で?」
「じゃあ駄目。死にきれなかったら困るでしょう。汚い」
「あ、そっか。じゃあ、あっちならコンクリートだよ」
そうして彼女の指差した方向を見る。
少し柵が低くなっている、マンションの裏の、元・駐車場、現・空地に面した場所だった。
・・・・・・此処なら、迷惑のかかる人も少ないかもしれない。それに、高さも含めて確実に死ねるだろう。
実際に立ってみれば、丁度追い風で、マンションの壁に激突、なんて間抜けな事も防げそうだ。
まぁ、実際にそんな事があるかどうかは判らないけれど。



 「危ないよ。滑るから気を付けて」
「あは、ゆうちゃん、もう死ぬのに」
「どうせなら一緒に綺麗に死にたいでしょう?」
「・・・! ・・・ありがとう」
「イエイエ」
彼女は、はにかむように笑い、それから雨で滑る柵を慎重に握って乗り越えた。

 「高・・・」
「まぁ十五階だからね」
「死ねるかな」
「そりゃね」

 此処に来て、尻込みしているのだろうか。
だったら彼女は、まだ生きた方が良いと思うのだけれど。
「怖い?」
「独りじゃないから」
「そう」
・・・彼女が死ぬのは、僕のせいらしい。困ったなぁ。でもまぁ、
これも彼女の希望かな、なんて勝手な解釈。

 「いく?」

 「じゃあ、逝こうか」

 僕の言葉に、彼女は笑った。嬉しそうに笑った。僕には、そう見えた。


 「集団自殺かなぁ」

 「・・・・・・『心中』のが格好良いでしょう」

 「そだね!」

 ―――そう是は心中。決して、友達同士の自殺じゃなくて。

 だって僕は、彼女の理由なんて全く知らない。
彼女が突然やってきて、僕に飛ぼうと言っただけ。
「ゆうちゃん・・・御免ね」
「別に構わない」
「でも彼氏もいるのに」
「でもハヤトなら僕が逝っても止めはしないだろうから」
「ハヤトくん冷たいの?」
「優しい」

 さぁ空に翼を広げよう。最も雨で、飛べないのかもしれないけれど。


 「逝こっか」


 「うん」










 もしも。もしも今日が晴れていたら、或いは瞳に映る景色も、変わっていただろうか。









 嗚呼きっと、明日の新聞の見出しはこうだろう。世間は騒ぐかもしれない。

 『一体何がそうさせたのか・・・女子高生二人で自殺』




 ―――なんて言っても、政治家の汚職なんかが無ければの話だけれど。

 そんなことを思う、僕の、最期の瞬間。