...2006.09.26 『勧酒』



巡る杯 此の世は夢よ
同じ夢なら喰はれてしまへ
あな美しき 夢のまた夢



 「っはぁ…はぁ…」
息が、切れる。其の気なんて全く無いのに、身体は言う事をきかない。中心、心臓の辺りは熱を持ち、そのくせ手指は生白く、酷く滑稽な気がする。黒塗りの胴は半ば赤茶に変色し、元は薄い色だった筈の着物や羽織は、被った血と埃や土に塗れ、無残な色合いになっていた。兜は何処にやったか覚えていない。取り敢えず必死で刀だけを振ってきた。ああ、本当に、滑稽な有様だ、と。妙に冷静な脳だけが、取り留めも無く思考を続けていた。

 一体、あれからどのくらい経ったのだろうか。あの、自分が戦場から撤退した、時から。…あぁいや、素直に敗退、と言うべきかも知れない。殿を務めて、兎に角刃を振るった。先に行かれた大将は、御無事だろうか。どう思い返しても、撤退というには余りにも無様な、己の退き際だった。そして今も、血を払う事も出来ない侭で、ずるずると倒れ込んでいる。不甲斐無い、話だ。

 「本当にな」

「え?」
聞こえた声に、弾かれるように顔を上げた。引き摺ってでも離さなかった刀を、構える事も出来なかった。気配さえ、感じられなかった。
「アンタ、鈍った? 其れとも、感覚がもう駄目なの?」
「なっ…何を言うか失敬な! 御前に言われたくは無いわ、弥七介!」
「おいおい、八郎太ー。其れ、どういう意味だよ?」
唐突に現れた、何も変わっていなかった、声は見知った声だった。そう見知り過ぎていて、逆に今此処に居る事が、不思議なくらいの。あぁ、だからか、此の身体が反応してくれなかったのは。
「何でそんな傷だらけかなアンタ」
「ふん、御前の居ない間に色々と在っただけよ。そうだな、俺は御前よりもずっと強くなっているぞ。間違いない」
「言うね。傷だらけってのは弱い証拠じゃねぇの」
弥七介の口には、昔から勝てる気がしない。尤も、実戦となれば充分に渡り合える。いや、今なら恐らく勝てると思う。
俺が心中息巻いている事に、気付いているのかいないのか、弥七介は其れを取り合う気も無いように笑って言った。
「まぁ良いけどね。取り敢えず此処は安全さ。暫く休めよ」
そうして、ふわりと座る。簡素な着物の上に重ねた羽織の裾が、開いて地に咲いた。ぼんやりと霞み始めている視界にも、其れは美しく見えた。木が生い茂って暗い山中。色気も無い剥き出しの土や草だのの上に、装飾の無い白いだけの着物と、紅い羽織がよく映えていたのだ。自分は、刀も着物も何もかも全て、ずるずると引き摺っているようなものなのに、弥七介の方は酷く軽やかで――羨ましい気がした。
 「呑めよ。折角の邂逅だ」
「ん? あ、あぁ…」
ぼんやりと見つめていたら、不意に弥七介が瓢箪を傾けて突き出した。とぷ、と音がしたところから見ると、未だ相当量が入っているのだろう。断る理由も無いし、素直に受け取る。
「直でいけよ。杯なんて高尚なモンはねぇからな」
「おう」
言われるが侭に、俺は口をつけた。近付けた香りは甘く、口当たりは柔らかく、けれど喉を通る瞬間は焼かれるような感覚に陥る。
「呑んだ事ねぇだろ、こんなの」
「ああ。何だ、これは?」
「慣れたら終わりだぜ」
「?」
弥七介は、口の端を小さく歪ませていた。言葉の意味が判らない。其れでも二口目を含もうと持ち上げると、弥七介から伸びた手が、制して取り上げた。
「あ」
「俺にも呑ませろよ」
そんな顔すんなって、と笑いながら、弥七介は瓢箪を傾ける。ぐい、と一口流して、また此方に差し出した。俺はやはり、素直に受け取る。
「アンタ、やっぱ未だ酒好きなんだな」
「これでも控えるようになったんだ」
「酒に関してだけは、やけに素直だぜ」
「煩いな」
くつくつと笑う声を聞きながら、俺は照れ隠しに、また酒を煽る。片膝を立てて刀を抱いて、斜を向いた状態のせいで、弥七介の様子が視界の端に映る。あいつは、一頻り笑った後に一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、寂しげに目を伏せた、気がした。
「弥七介?」
「ん、何」
問いかけるように呼べば、変わらぬ笑顔で此方を向く。変わらない、本当に変わらない、其の仕草。
「…其れ、呑み終わる迄に帰れよ」
ぽつり、と零した筈の言葉は、静寂に包まれている世界では、余りにも大きく聞こえた。
「…良い、夜だな」
良いものか。解っている。自軍は一時敗退、恐らく相当の痛手を受けているだろう。自分とて、血塗れのぼろぼろの姿で、気力だけで刀を振り回していたようなものだ。何人斬ったか、何人斬られたか、何もかも定かではない。最早、そう、生死さえも――――。
 ぐ、と瓢箪を再び傾ける。甘いような辛いような味、焼きつくような感触。抜けなくなる、絡んでくる其れは、まるで。
「未だ大丈夫だ。強くなったんだろ、アンタ」
「…当たり前だ。伊達に、御前より生きているわけじゃないんでね」
「三年になるか」
「…ああ、いや…忘れたよ」
「薄情な話だな」
はは、と軽く笑う。変わらない弥七介は、全てが記憶よりも酷く、軽く見えた。其の挙動も見目も、全てが軽い。息吹が、詰まっていない。
 「っは…」
飲み干そうと、俺は一息吐いて一気に傾けた。けれど、視界が歪む。端々からじわり侵食が始まり、滲むように揺れるように、世界が崩壊していく。
「――…八郎太」
「あ?」
「生けよ」
「はは…」
最後に見た弥七介は、やっぱり、相も変わらず飄々と、微笑んでいた。



 ………どのくらいの時間が、経ったのだろうか。俺は何時から、此処に居たのだろうか。
「痛っ…」
ゆっくりと起こした身体中から、痛みが伝達されてくる。俺は、未だ生きているのだと、文字通り痛感する。重い、重い重い、酷く、重い。
 此処まで来る途中で、味方の死体も何度か見かけた。撤退するのに此の山中を通ったのならば、もう暫く行けば、本陣の立て直しを図っていらっしゃるだろう大将の元へ行けるかもしれない。
 汚れた侭、半ば地に突き刺してしまっていた刀をずるりと引き抜く。引き摺るようにして身体を起こして、そして、前を向く。

 「あぁ…、未だ、生くよ…」

呟いた言葉が、空気に融ける。再びじわり滲み出してしまった視界に、けれどもう幻は、映ったりしなかった。

 生の重さが確かに俺を、世界に引き留めていた。