緩やかな午後だった。

   昼が終わり直ぐの古典。
文系の自分は別に古典が嫌いなわけじゃないけれど、はっきり言えば面倒だと思う。
悦に入ったように本文を朗読する教師に、
自分で読むから御前の感情なんか込めるなよ・・・と微か毒を吐く。
生徒の三分の一程度は、既に眠りの世界へと落ち込んでいるし、自分も寝てしまおうか、なんて考える。
ぼんやりと窓の外を眺めると、向こうの棟と青い空と白い雲。
当に小春日和という感じの十月の晴れた日、暑くも寒くもない気候。
何も無いなんて勿体無い、そんな事を思いながらぼんやりとしていたんだ。

 誰も、何も、知らなかった。
 誰も、何も、思わなかった。

 まさか。ドラマかニュースのような現実。






紅 花 還 元 君 言 葉  君        ― ベ ニ バ ナ カ ン ゲ ン キ ミ コ ト バ ―






 最初はただ、ざわざわと。俄かに騒がしい声が、向こうの棟から聞こえただけだった。
自分は長い間ぼんやりと向こうを見ていたから、其の変化に逸早く気付いた。
ガタガタと急いだように立つ生徒達、視力が足りないせいでよくは見えないけれど、何となく性急な感じ。
あのクラスは何処だろう・・・と考えて、不意に、見知った後輩を思い出す。
・・・・・・あぁ、あの子の、クラスだ。
 「佐藤くん! 外なんて見てちゃ駄目でしょー。『さべきなめり』品詞分解!」
「あ・・・はい」
目に余るものでも在ったのだろうか、それとも寝ていない人間は限られていたのだろうか。
とにかく其の古典教師は自分を指名して、自分は従って立つ。
「『めり』が現在推量の終止形、『な』が・・・・・・あ」
視界にはっきり、映ってしまった。
「ちょっと佐藤くん、当たってるでしょ。何処見てるのよ」
「・・・・・・問題、を」
「は?」
見えてしまったのだ、視力の悪い自分にもはっきりと、何故かはっきりと、認識出来てしまったのだ。
あの子が、立っていた。
何処となく定まらないような表情をしているような、そして恐らく逃げ惑うクラスの人間。
紅が、散っているように見えた。
 時を同じくして、ピンポンパンポン、と機械音がして放送が入った。
「全校生徒に連絡します。其の場に留まって、決して教室から出る事は無いようにして下さい。
全職員は、一旦職員室に集まって下さい。繰り返します・・・」
ざわり、クラスが揺れた。
どうやら自分は見間違いはしていなかったらしいと、思う。
 「・・・? 何かしら。まぁ良いわ、とにかく皆は当たり前だけど、此処から出ちゃ駄目よ!」
そう言い残して、古典教師は教室の扉を開ける。随分と呑気に構えているものだ。
最も此のクラスで現状を把握しているのは、自分くらいなのかもしれないけれど。



 「・・・・・・・・・あ」
あの子のクラスの前の廊下に、段々と教師が集まりだした。
一番端だった其の場所の近隣のクラスから、それから学年主任、後は・・・まぁ主要な教師。
「・・・・・・仕方無いなぁ」
独り小さく呟いて、なるべく音をさせないように自分の席から離れる。
ざわざわと騒がしいクラスでは見つかることもないかと思っていたけれど、
意外に目敏いクラスメイトが声をかけてきた。
「あ、さ・・・佐藤、何処行くんだ、御前!」
其の少し焦ったような笑える声に、自分は笑顔で・・・多分、含みのある笑顔で、
「・・・・・・現場、だよ」
焦点をぼかして、答えておいた。
自分が行かなきゃ、なんて、そんな正義感じゃない。
あの子が大切だから、なんて、そんな恋情めいたものじゃない。
ただ、『目撃者』になりたいだけで、それから・・・自分はあの子に、少し己を見てたから。



 思った通りの騒ぎだった。
他のクラスの人間は、興味津々恐怖満々といった感じで事の顛末を案じている。
当事者の人間は、何人かが制服に紅黒い染みを作って、
言葉になっていないような声を上げながら擦れ違ってゆく。
人の波に逆らうように、自分は、悠々と歩いていた。
「さ、佐藤! 御前、何しに来たんだ!!」
「・・・あぁ、川口先生」
何しに来たかなんて自分にも判らない。仕方ないから耳に届いた証拠に、名前を呟きながら一瞥した。
普段はどっしりとマイペースに構えている此の教師、今は少なからず恐怖畏怖の色が浮かんでいる。
 「きゃあああ!!」
「早く行け!!」
「やっ・・・あ・・・!!」
廊下は声と足音と・・・凡そ様々な逃げる音で充満していて、いっそ滑稽に思えた。
何時か見たホラー映画のような、戦々恐々とでも言い得る光景。
そして立っていた、あの子。
 自分より少し年下で、少し自分に似たところのある子。
何時だって自信満々に見えて、そのくせ妙なところで遠慮する子。
基本的に微妙に距離を置いているようで、意外に近寄ってほしいと願っているかもしれない子。
其れが、あの子。あの子・・・・・・

 「福部!!」

 福部優。
両手が紅く染まったまま自分を見て、小さく目を細めた気がした。



 「福部くん・・・どうしたのさ」
「あ・・・・・・」
呆けた、気の抜けた声を出して、あの子はへたり込んだ。
音をさせずに、自分はあの子の手から今は紅い、元は銀の、カッターを抜く。抵抗も無く、簡単に。
教師の突き刺すような視線で、息を呑んで見られている事を感じた。
 目線を合わせるように自分もしゃがんで、あの子に笑った。
「今度は、何が在ったの」
ゆっくりと伏しがちだった顔を上げて、自分を見つめて答える。
「・・・判んないです・・・」
「やっぱり」
予想通りの返答に、自分はまた笑った。
普段は目を合わせようとしない あの子が、面と向かって自分を見たのは、進歩かななんて思いながら。
 周り、廊下は夥しい数の血液が散っていて、まるで桜でも散った後のようだった。
其れと同じくらい、本当にきっと儚いのだろうなんて考えて、自分の思考に苦笑する。
でも事実そうなのだ。全て、精神も生命も全て、そんなものなのだろう。
 「どうせ、また『出た』んでしょ。ったく・・・」
あの子に小さく、教師に聞こえないように言えば、こくんとひとつ首を振って、
「・・・『彼』が・・・」
そう呟くのが聞こえた。
自分は其れに、「はいはい」なんて宥めるように笑って、ああ、何て場違いで緩い時の流れ。
映る景色以外は普段と何ら変わる事の無い会話をしながら、とにかく自分たちは、笑っていた。



 「福部優だね?」
背後に何となくの気配。教師が警察を呼んでいたのだろう、まぁ、至極当然の話だけれど。
あの子は少し黙った後に、大振りな動作と共に「はい」と頷いた。
一般の定めが近づく。恐らく少年法で護られる年齢ではないあの子、それなりの処置をされるだろう。
ああけれど、精神鑑定で精神病のレッテルを貼られ、直ぐに会う事になるかもしれない。
自分がぼんやり考えている間に、様々な確認があの子になされていた。
 先程まで騒いでいた人間の影は今は無く、息を押し殺した暗くて明るい廊下には、生の匂いがしなかった。
紅が点々と続く。何処までも、一帯は紅の花弁が散っていた。
廊下の端 教室側には、息を詰めて、酷く不安げな忌々しげな、そんな雰囲気の教師が並んでいる。
ああ何だか、本当に滑稽に思えてきた。
 「どうなるかねぇ?」
少し喜々としたような声音になってしまいながら、自分はあの子に訊ねる。
あの子はあの子で、まるで他人事の如く、「さぁ・・・」と首を傾げる。
飽くまで軽い自分たちの会話に、やっぱり笑えてきながら、「自分も判んないなぁ」なんて呟いた。
 場違いみたいに緩やかな時の流れ。
座り込んでる あの子に合わせて自分はしゃがみ込んで。
自分も大概は流してしまうタチだけど、あの子も結構そんなタチだ。
此の真っ赤なカッターを持ち出した理由もきっと、大して無かったりするのだろう。
 「では」
「あぁ・・・はい」
堅苦しい言葉と共に、少し申し訳ないような呆れたような、けれど畏怖も混じった・・・
そんな瞳をあの子に向けて。
やってきていた刑事が、あの子を促した。
其の侭、脇で間抜け面をさげて見ているしかなかった教師陣に一礼する。
それから、無機質な足取りで歩いてゆく・・・桜の花を、踏まないように。
あの子も一瞬遅れそうになった後、
花弁に躊躇する事無く歩き出そうとして―――自分は其の手を、思わず掴んだ。
消えそうなあの子に、
「福部くん」
消えないものを残しておこう、なんて。
 「ん・・・」と答えたあの子の手につかまりながら、自分はゆっくりと時間をかけて立つ。
しっかりと立てば、自分はあの子よりも数センチ高い身長がある。
其れを最大限利用、立ち上がる自分を目で追ったあの子に其のまま視線を合わせた。
そして普段は出さない柔らかい笑みを深めて、何となく秘密事でも言うように、囁いた。

 「いってらしゃい」

 ちゃんと帰ってきたときに、

 「・・・・・・いってきます」

 『おかえりなさい』と言ってあげられるように。

 「最も、どうせ会いに行ってあげるけどね」
意外にも照れてしまった其れを隠す為に付け足して、あの子の背中を、ぽんと押す。
「マジすかー。じゃあ気が向いたら来て下さいよー」
「はは、ちゃんと行く行く」
「待ってますー」



 彼と僕と、二人持て余して、不意に消えそうになるあの子。

 驕ってるわけじゃない 唯、あの子にもう一人の自分を見てた気がしたから。