緩やかな午後だった。

 昼が終わり直ぐの数学U。ベテランで動じない老教師の低くて落ち着いた声。
満たされた生徒は三分の一・・・いや、半数程が、既に眠りの世界に落ちている。
熱くも寒くもない十月の曇り空が、窓の外 見えている。
先刻まで青く高い空も見えたのに・・・と、やっぱり彼も、授業は流して外を眺めていた。
テストの解説なんて、解答見りゃ何とかなるだろ、は彼の自論。

 誰も、何も、知らなかった。
 誰も、何も、思わなかった。

 だって僕すら、何も 考えてなかったんだ。






紅 花 還 元 君 言 葉  僕       ― ベ ニ バ ナ カ ン ゲ ン キ ミ コ ト バ ―






 「っ、ひ・・・やああああ!!」
「?!」
息を詰めたような音の後、甲高い大きな悲鳴が響き渡った。
僕は、銀の刃と紅の液を、視界に映す。
カッター、市販の、何処にでもある、そして血液、誰だって、イキモノ等しく持っている。
 「や、あっ・・・あっ・・・」
「久根?! どうしっ・・・うわあ!!」
悲鳴を上げた少女の 隣の席の少年が、ガタン!! と勢いよく仰け反るように立ち上がった。
眼は見開かれ、驚愕を訴えている。其れは感染するように、瞬く間に教室中に広がった。
ざわざわと、けれど誰も、口を開けられない。
 「井部く・・・あた・・・あたしっ・・・」
「う、動いちゃ駄目だ!! 先生っ・・・先生、どうしよう?!」
「落ち、落ち着け! とにかく、し、止血・・・!」
そう、確かに白い長袖のカッターシャツには、少し紅黒いような染みが出来てしまっていたけれど、
出血量としては多くない。

 「足りない」

 「え?! っきゃああ!!」
次は、少女の右斜め後ろの やはり少女、過ぎた悲鳴が上がった。
 波紋が、広がる。
血の匂い佳芳が、充満してゆく。
どくん、と心臓が跳ねた。
怖い?
覚醒するような、けれど痺れるような。

 「す、杉田!!」
「愛ちゃん!」
クラスメイト、友達かな、叫び声。二人を裂いたカッターは、血を吸って紅く膨らんでいる。
「うっ・・・あ・・・わああ!!」
「あああ!!」
腰が抜けたように へたり込む少年、ガタガタ真っ青な顔で 震える少女。恐怖が伝染し、侵食する。
彼の刃は、しかしまだ、笑う。笑っている、よう。

 「足りない」

 「やっ・・・!!」
「――――――ッ!!」
もう、誰の声かなんて判らなかった。
高い声、低い声、大きい声、小さい声、荒い声、静かな声。
何もかも、グチャグチャに溶け合うように、入り乱れて。
脳に直接響くようで、何処か遠くで起こっているようで。
ひとりひとりの傷は浅い薄く弱い、けれど重なって殖えて、染みが広がってゆく。

 悲鳴と血の香と、恐怖と歓喜。

 「足りない」

 「足りない」

 「足りない」

 血を吸う刃が、鈍く光っている。血を吸って刃が、鈍く光っている。
彼の言葉が教室中、日本中、世界中、響いているようで そして、脳内全て侵されてゆく鈍落感。
 彼が笑う。
彼の手元が真っ赤に染まって、いっそ美しいほどの笑みを湛えて歪んだ唇。
断続的な悲鳴。ずっと、ずっと耳鳴りみたいに。
 「きゃあああ!!」
「先せっ・・・片桐さんが!! 真矢!!」
「痛っ・・・痛いッ・・・!!」
声が飽和して、未だ殖えてゆく。既に教室内に留まりきらず、廊下にまで侵食は広がっている。
僕も飛び出す。廊下は響くのかな、より声が大きく肥大化して叩き込んでくる。身体に突き刺さる。
「っひ、やああ!!」
「オイどうした!オイ!!」
「せんせい!!」
「駄目だ オイ、十組はクラスから出ろ! 他は出るな!!」
教師の声が多く混じるようになった気がした。生徒より少し野太いような声。
区別出来るのは男女、老若それくらいで、後はまるで、ノイズのような 水の向こう側のような。
何も判らない。何も解らない。ただ。

 「福部!!」

 ―――僕の、名前を、誰かが呼んだ。
解っていたのは―――・・・此の両手も、真っ赤だった事だけ。



 「福部くん・・・どうしたのさ」
「あ・・・・・・」
気付くと、視線を合わせるようにしゃがみ込んでいたのは、
僕より少し年上の、僕のとてもすきなひと。
何時でも笑みを浮かべている優しげな好青年に見える割に、
何とも捉えどころの無い、不思議で、僕にとっては素敵なひと。
「今度は、何が在ったの」
「・・・判んないです・・・」
「やっぱり」
そうして少し呆れたような口調で笑う。彼の笑みとは、違う笑み。
 「どうせ、また『出た』んでしょ。ったく・・・」
「・・・『彼』が・・・」
「はいはい」
心地良いと、思う。
夥しい血の滴った跡の中で、あのひとと 笑った。
彼は何時の間にか消えて、僕は、あのひとと笑った。



 「福部優だね?」
「・・・・・・はい」
見知らぬ大人が近づいてきて、僕の名前を確認した。スーツ姿、恐らく、十中八九警官。
「――――――」
あぁほら、やっぱり。黒の手帳、独特の金印、眉を顰めて 僕に大雑把に確認を続ける。
 先程まで騒いでいた人間の影は今は無く、
息を押し殺した暗くて明るい廊下には、生の匂いがしなかった。
紅が点々と続く。何処までも、一帯は紅の花弁が散っていた。
 「どうなるかねぇ?」
「さぁ・・・」
飽くまで軽く、今後のドラマの展開を考えるように。
あの人は少しだけ笑って、「自分も判んないなぁ」と零した。
場違いみたいに緩やかな時の流れを感じながら、座り込んでいる僕と消えつつも未だ少し疼いている彼。
そして目線を合わせるように、しゃがんでくれているあのひと。
多分、騒ぎになってしまった噂を聞いて、「仕方無いなぁ」と笑ってくれたんだろうと、思う。
 「では」
「あぁ・・・はい」
堅苦しい言葉と共に、少し申し訳ないような呆れたような、けれど畏怖も混じった・・・
そんな瞳を僕に向けていた。
大人、其れ以上も以下も無く、大人。
僕を立つよう誘うと、脇で静観していた、基 傍観せざるを得なかった教師陣に一礼した。
そして器用に舞わされた花びらを踏まないように歩を進めてゆく。
僕も、遅れるのは不味いかなと一歩踏み出した勿論、多く花弁を踏みしめながら。
―――不意に、真黒の袖から伸びた腕、手に、温みが絡んだ。
「福部くん」
 「ん・・・」
しゃがんだ侭のあのひとは、僕の手を支点にゆっくり立って、
そうすると実は僕より数センチ高い身長を以って、僕を映して。
読めない笑みを深めたままに、こっそり・・・というわけでもないけれど、囁いた。

 「いってらしゃい」

 余りにも、綺麗な笑みに見えたから。

 「・・・・・・いってきます」

 『おかえりなさい』を待ってると、初めて泣きそうになりながら。

 それからあの人は「最も、どうせ会いに行ってあげるけどね」と付け足して、僕の背中、ぽんと押した。
「マジすかー。じゃあ気が向いたら来て下さいよー」
「はは、ちゃんと行く行く」
「待ってますー」



 ぽんと背中の温い痛みが、ずっと燻り続けてる。

 何時か僕と彼と手を繋いで、あのひとに「ただいま」と言おうと思った。